問い続ける『復興』 深谷さん、建築家への道と地元への思い交錯

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高台から望む現在の相馬市磯部地区。ソーラーパネルなどが並び工事が進む

 震災発生時の中学生、高校生が社会人としてスタートを切り始めている。10代に震災、原発事故に遭い、復興の担い手と期待され続けた世代は震災から7年を経て「復興とは何か」の模索を続けている。

 相馬市出身の深谷華さん(21)は昨春に大手建設会社に入社し、宮城県気仙沼市の魚市場の復旧工事現場で働いている。

 深谷さんは震災の津波による犠牲者が250人を超えた相馬市磯部地区の出身。震災当時は磯部中の2年生だった。建築家を目指して仙台高専に進学。大学への進学も考えたが、政府が定めた復興集中期間が2020年度までであるのを考慮し「今でなければ復興に携わる仕事ができない」と就職を決めた。

 「復興」について今でも考えるという深谷さん。転機になったのは高専時代。相双地区在住・出身の仲間と、取材し選んだ古里の逸品を全国に届ける取り組みを始めた。「地元のために何かをしたい」という気持ちを、初めて形にできたと深谷さんは振り返る。

 きっかけは12年7月に復興支援事業で参加した米国研修。深谷さんは1期生で、翌年の研修参加者の構想を応援する形でメンバー入りした。古里のためにできることを探ろうと、話し合いを重ね、実行グループ「trees(トゥリーズ)」を結成。深谷さんは古里の店を一軒一軒訪ね、地域の産物を探す中で「活動を始めるまで地元に閉塞(へいそく)感を感じ、どこか好きになれなかった古里をこんなに好きになることはなかった」と明かす。活動は仕事の一方で今も続けている。

 新たな夢に進む人も 「担い手に」期待が重圧

 震災から7年を経て、深谷さんのように復興に積極的に携わる若者は決して多くはない。震災当初は、多くの子どもたちが復興への決意を語り、周囲の大人もそれを期待する言動が目立った。

 しかし成長する中で目標は当然変わる。新たな夢を見つける若者も多い。「周囲から復興の担い手として期待を受け続けたことで、復興と直接的に関わっていない分野に進んだことを気に病む若者も目立ってきている」と浜通りの行政関係者は明かす。

 深谷さんは自身が復興に取り組み続けることができる理由を「被災者ではないから」と分析している。磯部地区は多くの家屋が流されたが、高台にある家は無事、家族にも犠牲者はなかった。中学校には家族を亡くした生徒もいて、多くの生徒が応急仮設住宅からバスで通学していた。深谷さんは自身が家族も家も無事だったことで周囲との距離を感じていた。

 慕っていた先輩の宮崎朱里さん=当時(15)=が津波の犠牲となったこともあり、ふさぎ込んだ時期もあったが、宮崎さんに建築家になるという夢を応援してもらっていたのを思い出し、前向きになることができたという。

 震災当初は「復旧」とほぼ同じ意味合いで受け止められていた「復興」。震災から7年を迎え、道路や漁港などの復旧が進んだ分、「復興」という言葉の意味があいまいになりつつある。

 深谷さんの実家の周辺は流された住宅の跡に太陽光パネルが敷き詰められ、震災前と様相が一変している。深谷さんは実家に戻る度に変わる古里の光景を見て、震災当初から問い続けてきた「復興」についてようやく整理がつきつつあるという。「道路や建物は時間と金があればできる。震災で家族を失った人、家を失った人の心が癒えることはないと思う。ただ、震災のおかげで変われたという瞬間がくればそれが復興なのかもしれないと今は思う。震災があったから出会えた、強くなれたなど。震災があったからと言えるようになったら、それが復興したということなのだと思う」