【検証・コミュニティー再生】相馬 たどり着いた「安住の地」

 

 「あの時は、やっと戸建てに住めるんだなと、ひと安心したんだ」。相馬市の災害公営住宅「程田明神前団地」で行政区長を務める但野一男(76)は、引っ越してきた2013(平成25)年夏の気持ちを振り返る。団地は、東日本大震災の被災地で最も早く完成した戸建ての災害公営住宅だった。

 津波で大きな被害を受けた相馬市は、入居5年後の払い下げを想定した災害公営住宅を程田明神前団地など市内3カ所に整備した。

 但野は同市磯部地区の自宅に家族7人で暮らしていた。「波の音が聞こえるぐらい海に近かった」と懐かしむ。しかし、津波は無情にも自宅、そして妻らの命を奪った。避難所や仮設住宅での暮らしは2年余り続いた。災害公営住宅は、親子のように一緒に生活してきた孫のみなき(21)と2人でたどり着いた安住の地にほかならなかった。

 公営住宅「わが家」に

 「磯部の時だって自分の家だった。購入すれば自由に暮らせる。借りているのとは大違いだ」。但野が譲渡契約書に調印したのは、19年1月のことだった。災害公営住宅は「わが家」になった。

 時は流れ、但野の生活は大きく変わった。みなきが結婚し、一昨年10月にひ孫が生まれた。今は一つ屋根の下、孫夫婦やひ孫と4人で肩を寄せ合う。「あれだけ苦労した末に幸せになった孫の姿を見ているだけで、俺はいいんだ」と、少し手狭になってきた部屋を見回して満足そうな笑みを浮かべた。

 市によると、団地の46戸のうち、払い下げとなった住宅は20戸にとどまる。健康や資金面で懸念があるため購入を見送った高齢者もいれば、家族構成や勤務先が変わるなどして転居した住民も少なくない。

 市は17年、空き家となった災害公営住宅について、被災者の入居希望がなければ市営住宅として貸し出すことを始めた。但野の住む団地にも、5世帯が引っ越してきた。

 長男と2人で暮らす柴崎千鶴子(81)は、19年の東日本台風(台風19号)で市内の自宅が被災し、団地に転居してきた。好きな草花を所狭しと植えた庭で手入れをしていると、近くの女性が集まってきて世間話が始まった。芝崎は「ここで暮らす人は、誰もがいろいろな苦労を経験している。だからこそ、すんなりと私を受け入れてくれたのだと思う」とほほ笑んだ。

 但野は、柴崎にも古い知り合いのように気さくに声を掛ける。「時がたてば、住んでいる人の気持ちも変わる。それでも、今住んでいる場所を自分たちの地域だと思って、みんなで支え合うのがいいんじゃないかな」。但野の口調に熱がこもった。(文中敬称略)

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 相馬市の災害公営住宅 東日本大震災で相馬市の1300棟余りの住宅が全壊、大規模半壊の判定を受け、2015(平成27)年3月までに9カ所の災害公営住宅が整備された。このうち程田明神前、細田東、山信田の3団地、計167戸は将来的に入居者に払い下げることにしていた。ただ、今年5月末現在で払い下げされた住宅は3団地の5割程度にとどまる。購入を希望しない場合でも、入居者は引き続き賃貸で住むことができる。