【トリチウムとは】眼前に「処理水」...容器の中に77万ベクレル

 
放射線管理区域のため決められた服装では思いのほか重装備だが、線量は低い。77万ベクレルのトリチウム水と対面し、ビーカーに顔を近づけても臭いはない

 東京電力福島第1原発事故から10年目が迫るのに、福島を巡る言われなき風評が依然、復興にブレーキをかけている。これほどまでに根強いのはなぜか、その深層に横たわる要因を解き明かしたい。折しも放射性物質トリチウムを含む処理水の処分について政府の小委員会が海洋放出を強調した提言をまとめ、新たな風評必至という見方が広がった。風評を止めるすべはないのか。連載第1部は、トリチウムの実態を追う。

 弱い放射線、振れない針

 「この中にトリチウムが含まれているのか」。東京電力福島第1原発にある化学分析棟に入り、放射性物質トリチウムを含む「処理水(トリチウム水)」と初めて対面した。処分方法を巡り、国内外で議論の的となっている処理水。見た目は無色透明、ただの水のようだ。

 第1原発で発生する汚染水は多核種除去設備(ALPS)で浄化され、処理水としてタンクで保管される。原発事故から丸9年を迎える中、貯蔵量は25メートルプールで2000杯分以上にもなる。しかし、取り扱い方法は決まっていない。立ち並ぶタンク群の映像が「福島の今の姿」として発信され、おどろおどろしいイメージを増幅させてきた。

 そもそもトリチウムとは、どんな物質なのか。

 「これが処理水です」。理科室のような分析棟で、担当者として取材に同行した資源エネルギー庁の木野正登廃炉・汚染水対策官が、約1リットルの処理水の入った容器を指さした。トリチウム濃度は1リットル当たり約77万ベクレル。第1原発で保管されている処理水の平均濃度と同程度だ。

 担当者が容器からビーカーに流し入れた。記者は、東電所有の検出器を借りて水面に近づけ、処理水から放出される放射線量を測った。検出器の針はほとんど振れない。分析棟内の空間線量とほぼ同じ毎時0.04マイクロシーベルトだ。

 次は綿手袋の上にゴム手袋をした両手で、ビーカーに触れた。マスクをして顔を水面から十数センチまで近づけた。臭いはない。「こんなに近づいても大丈夫なんだ」。処理水を見つめる記者に、担当者は「トリチウムが出す放射線のエネルギーは弱く、紙1枚でも防げる。まして水中では、ほとんど進むことができない」と説明した。

 トリチウム水は普通の水と化学的な性質がほぼ一緒だ。そのため、水に含まれていると除去するのが難しい。科学者からは「砂山から違う砂を一粒ずつ見つけて取るようなものだ」という指摘もある。

 トリチウムは放射性物質を扱う原発の通常運転でも発生する。日本や韓国、フランスなどでも基準を守った上で放出されている。しかし、あまり知られていないのが現状だ。

 トリチウムが出す放射線の弱さについては、東電や国も説明を続けてきた。だが、説明が現場実態に合っていると感じられたのは、こうして目の前で見たからだ。第1原発で処理水を見ることができるのは分析棟だけで、今回は特別な許可を受けた取材だ。「第1原発の視察者にもっと見てもらうべきではないか」。分析棟の帰り際、担当者に問うと、こう答えた。「処理水を入れた容器を第1原発に置き、視察者に線量を測って見てもらうようなことができないか、東電と話している。放射線量を測ることで、その弱さを分かってもらえるはず」。処理水やトリチウムについてもっと知ってもらう機会が必要だ。

 説明不足招いた『不信感』

 東京電力福島第1原発の汚染水を浄化する多核種除去設備(ALPS)は、トリチウム以外の62種類の放射性物質の濃度を下げられる。だが、現状での処理水にはトリチウム以外の放射性物質も除去されずに残り、大半は放出の法令基準値を上回る。海洋放出など処分策の問題点として指摘され、「風評を呼ぶ」と批判を招いている。

 「(空間線量は)毎時30マイクロシーベルト」。取材に同行した資源エネルギー庁の担当者、木野正登廃炉・汚染水対策官と、化学工場のようなALPS内を歩いた。設備の稼働音が大きい。複数の大型タンク、筒状や箱形の設備などが並び、防護服にヘルメット、全面マスク姿の作業員が数人ほど作業に当たっている。

 汚染水は原発事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)を水で冷やしたり、地下水が原子炉建屋に入ってデブリに触れたりして発生する。ALPSでは汚染水の放射性物質を沈殿させたり、吸着剤に通したりする。

 この吸着剤の交換頻度を上げて汚染水の処理量を減らせば、トリチウム以外の62種類の放射性物質を環境中に放出する基準値未満まで浄化できる。しかし、国や東電は、吸着剤の交換頻度を下げ、処理量を増やす運用を優先した。タンクに高濃度汚染水があり、まずは廃炉作業を進める上で作業員の被ばく量を減らす必要があったからだ。「放出の基準値未満ではなく、原発敷地境界の空間線量が年間1ミリシーベルト未満となるのを優先した」と担当者。トリチウム以外の放射性物質が基準を超えるのは、処理水の貯蔵量のうち約7割に及ぶ。

 処分前の処理水再浄化「前提」

 国や東電は、この事実を公表はしていた。しかし、県民や国民に詳しく伝わっていなかった。このため2018年8月に県内外で開かれた処理水に関する公聴会で批判が噴出。「説明不足だ」「トリチウムだけという議論の前提が崩れた」。県民らの不信感、不安感が募る形となり、情報公開の在り方が問われた。

 現在は吸着剤の交換頻度を上げて運用されている。東電は今後、処分方法が決まった場合、処分前に基準値未満までALPSで再浄化する方針を示している。

 1月31日の政府小委員会。大筋で了承された提言案にも「十分な処理がなされているとは言えず、浄化処理を終えたALPS処理水とは言えない」と明記された。その上で、委員はくぎを刺した。「2次処理(再浄化)が完璧であることが前提。風評被害の基になる実害を絶対に起こさないようにしてほしい」

トリチウムって何?