馬場浪江町長、常に『町民』念頭 辞任後も「復興旗振り役を」

 
震災から時計の針が止まったままの浪江町内を視察した馬場町長。町内を見回りながら「必ず復興させる」と語っていた=2013年3月8日、浪江町権現堂

 27日に亡くなった浪江町長の馬場有氏は2011(平成23)年3月の東京電力福島第1原発事故から7年3カ月にわたり、町の復興に陣頭指揮を執った。突然の訃報に町内外から悼む声が上がった。

 全国に避難した町民2万人超をまとめ、古里の復旧と復興に全力を注いだ。温和で真面目、酒が入ると泣き上戸。一度決めたことには執念を持ち、常に「町民」を念頭に置いた。ただ、信念を曲げない性格が仇(あだ)となり、職責を全うしようと病気療養は二の次になった。

 東電や国、県を糾弾する姿が目に浮かぶ。震災直後、国や東電から原発の状況や放射性物質の拡散予測の情報が知らされず、混乱の中で放射線量の高い地域に町民を避難させた―という自責の念。さらに町内沿岸部には津波で被災し、救助を求める人がいる中、避難のために捜索を断念せざるを得なかった。「助けられた命があった」。無念と怒りをいつも口にしていた。

 このことが国や東電への不信につながった。町民が東電に慰謝料を求めた手続きで、東電と対立すると「加害者意識がひとかけらもない」と激高した。ただ、昔からの知人は「震災前はあまり感情的になったことはない」と語った。町長の重責を背負っていたのだ。

 常に町民を思っていた。震災発生5日目の3月15日朝、二本松市役所を訪ね、町民の受け入れを要請した際、市職員からカップラーメンの提供を受けると「町民が満足に食べていないので頂けない」と固辞した。震災後、トレードマークとなったひげを生やした理由も「町民の供養ができていない」。ひげは11年10月に同市で行われた町の慰霊祭まで伸ばした。

 「町長としての職責を全うできず、じくじたる思い」。今月3日、入院先の福島市の病院を見舞った際、すでに町長辞任を決意していたことがうかがえた。12日に電話した時は「もう少し体調が良くなったら取材を受ける。こっちから連絡する」とか細い声で話した。

 人の営みが消えた町内を共に歩き「復興は険しい道のりだが、不退転の決意で進む」と語った姿が思い浮かぶ。17年3月末に町内の一部の避難指示を解除し、帰還する住民も増えてきた。病床では町の将来を案じ「町長を辞めても早く元気になって復興の旗振り役になる」と話していた。「町おこしより町のこし」の思いは受け継がれるだろう。