【春日部~栃木】<いと遊に結びつきたるけふりかな> かすみ立つ室の八島

 
境内の「室の八島」は、朱塗りの橋などで八つの「島」が結ばれた庭園。こぼれ落ちたツバキの花が彩りを添える=大神神社

 今回も松尾芭蕉を追い掛け、関東平野を北へ進む。まず、芭蕉の同行者曽良が、旅の初日、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)に宿泊したと「日記」に記した粕壁(現埼玉県春日部市)である。

 記録残らぬ伝承

 東武スカイツリーラインで独協大学前 草加松原駅から北へ約30分、春日部駅で下車。駅の東口を出て、宿場町があった駅の北側をぶらぶら歩く。

 あちこちに彫刻や、ハクモクレンなど季節の花。のどかな街だ。戦前、旧制粕壁中(現春日部高)の教師だった俳人、加藤楸邨(かとうしゅうそん)の住居跡の表示に出くわしたりもする。

 元宿場町の東端、東陽寺の門前では「日光道中粕壁宿」の標柱を見つけた。側面に、芭蕉は東陽寺に宿泊したともいわれている、と書かれている。

 はて、曽良の日記にも、そんな記録はないが、と春日部市教委に聞くと「『春日部市史』に『東陽寺に泊まったとの伝承がある』と記されている」とのこと。加えて、宿場北の観音院に宿泊したとの説もあると言う。

 「芭蕉は寺に泊まることが多かったから、そう言われるのだろう」と、旧街道の老舗菓子屋「江戸助」の主人降田実さん(64)が言う。なるほど納得。「芭蕉に詳しいですね」と言うと「有名人だもの。マスコミがよく取材に来るし」と返された。

 この春日部、芭蕉の句は残っていない。そのため楸邨の26歳の作を記す。〈棉(わた)の実を摘みゐてうたふこともなし〉
 実摘みの作業はつらく、歌を歌うこともないの意。春日部は綿花の産地だ。叙情的で、同時に人間へのまなざしが深い。

 さて、旅は続く。「曽良日記」によると芭蕉らは旅の2日目、3月28日、春日部をたち9里(約36キロ)北の間々田(現栃木県小山市)で宿泊。翌29日は歌枕「室(むろ)の八島(やしま)」を参詣した。

 記者も、東武宇都宮線の野州大塚駅周辺でこの歌枕を探すが辺りは農村地帯。失礼ながら「こんな田舎に...」と思っていると、室の八島がある大神(おおみわ)神社(栃木県栃木市惣社町)の看板。その先に、うっそうとした神社の森が、浮島のようにあった。

 歌枕は和歌に詠まれた名所。この地は、藤原実方の歌〈いかでかは思ひありとは知らすべき室のやしまのけぶりならでは〉などで知られる煙の名所だ(別項参照)。和歌では、室の八島と、はかない恋心などを表す煙がセットで詠まれる。

 煙は、炊煙か水煙か、かげろうかと諸説ある。八島は、私見だが、平野に点在する森や林が無数の島に見えなくもない。

 この地について「おくのほそ道」では、由来などが語られるだけで、そっけない。だが、なかなかの趣だ。

 島を巡りお参り

 7世紀創建という同神社の神域は約4.5ヘクタール。大木が濃い緑を茂らせる。

 現在、境内に設けられている「室の八島」は、八つの小島が橋で結ばれ池に浮いていた。島ごとに熊野、二荒など神社があり、参拝客は島を巡りお参りする。凝った趣向だ。

 藤原定家の歌碑など数々の石碑の中に芭蕉の句碑もあった。

 〈いと遊に結びつきたるけふりかな〉(「曽良日記」俳諧書留より)

 「おくのほそ道」にはなく、「曽良日記」の俳諧書留に記された句。いと遊(糸遊)はかげろうの意という。

 権禰宜(ねぎ)の荒川育子さん(62)にあいさつし神社を出ると、早春の日を浴びた農地の上が少しかすんで見えた。これが煙だろうか。出来すぎのようだが、本当の話である。

【春日部~栃木】<いと遊に結びつきたるけふりかな>

 【 道標 】「旅の詩人芭蕉」像の確立

 松尾芭蕉という名を聞くと「旅の詩人」「漂泊の俳諧師」といった言葉が反射的に浮かんできます。風に吹かれて思いのままに諸国をさすらう旅人像が、芭蕉には確かに似合います。
 芭蕉自身も、旅を重ね歌を詠み続けた能因(平安時代中期の歌人)や西行(平安時代末期から鎌倉時代初期の歌僧)らにあこがれ、庵住と行脚を繰り返す生き方を理想としていたのは、その作品を読む限り間違いないようです。
 では、実際はどうだったのか。芭蕉が深川に移った延宝8(1680)年から亡くなる元禄7(1694)年までの15年間を見ると、大きな旅は4回。「おくのほそ道」の旅に続く上方滞在も加えれば、江戸を離れた期間はおよそ4年半になります。
 そこから火事で焼け出されるなどした仮寓(かぐう)期間を引けば、行脚と蕉庵にいた時間は1対2といった割合になります。
 行脚の期間が意外に少ないと思われる人もいるかもしれません。それでも、「笈の小文」の旅と「ほそ道」の旅の間が約7カ月であるなど、旅から帰って、すぐまた慌ただしく出掛けて行く、というのに近い実態はあったようです。
 ただ、同時代の俳壇には日本中を旅した三千風、幽山のように旅を愛した俳諧師はほかにもいました。
 芭蕉の門人たちも師の没後、芭蕉が行けなかった地域にも足を運び蕉門を全国的なものにしていきました。
 それでも、芭蕉ほど「旅の詩人」の名号が似合う人はいません。それは、芭蕉が「おくのほそ道」を書いたことで、その中の旅人像が芭蕉のイメージを固定化していったからだ、という解答が浮かんできます。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)