【 大垣 】<蛤のふたみにわかれ行秋ぞ> そして、また...旅が始まる

 
芭蕉が船に乗り伊勢へ旅立った船町港の跡。船町港は、大垣城下を巡る水門川に設けられた川港で、水門川は揖斐川と合流し、大垣と桑名の間を船が行き交った。奥は元禄時代に建てられた住吉灯台、川に浮かぶのは小鵜飼舟=岐阜県大垣市

 とうとう、ここまで来てしまった。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅の最後の地、大垣(岐阜県大垣市)である。

 大垣は、敦賀(福井県敦賀市)から約60キロ南東に位置する。松尾芭蕉の記述は、この距離を一気に飛ぶ。1689(元禄2)年8月21日(陽暦10月4日)ごろ、芭蕉は、敦賀まで迎えに来た門人の露通(斎部)とともに「駒にたすけられ」美濃国「大垣の庄」に入り、如行(近藤。元大垣藩士の門人)や河合曽良ら親しい人々にいたわられ、旅の疲れを癒やした。

 戻ってきた現実

 芭蕉の時代、大垣は戸田家10万石の城下町で、東海道と中山道をつなぐ美濃街道の宿場町、桑名宿(三重県桑名市)との間を揖斐(いび)川経由で船が往来した港町でもあった。そして現在は人口16万の岐阜県第2の都市。東海道線の大垣駅を降りると、駅ビルの通路には「奥の細道紀行330年記念」の横断幕が掲げられ、ベンチには「奥の細道むすびの地 大垣」の文字があった。

 大垣では、地元を「奥の細道最後の地」とは言わない。「むすびの地」と言う。物語の締めくくりの地という意味だ。

 大垣の手前、敦賀の人によれば「ほそ道」の「旅の舞台」の最後は、敦賀だ。大垣は「旅の舞台」ではない。では大垣は、と言うと、旅という非現実的な世界を体験してきた芭蕉が、そこから帰還し、やっと戻ってきた「現実の地」なのである。

 「ほそ道」の大垣の場面、「多くの親しい人たちが日夜会いに来て、まるで生き返った人に会ったように、喜び、いたわってくれる」(意訳)と、芭蕉自身も、あの世からの帰還を連想させる言い回しをしている。

 さて、駅の観光案内所で芭蕉ゆかりの地を聞くと、駅南口から水路沿いに約2キロ南へ行くと「大垣市奥の細道むすびの地記念館」があると言う。雨模様だが「水路沿いは歩くとすてき」と言う職員に従い歩き始めた。

 遊歩道「四季の路」は、大垣城の堀を整備した水路「水門川」沿いを巡り、芭蕉が「ほそ道」で詠んだ句の石碑が点在していた。行き過ぎる風景は、桜には早いが、すでに春だ。ハクモクレンが真っ白な花を開き、柳が浅緑の枝を揺らしている。

 穏やかで親しみやすい街だ。だから芭蕉は、この大垣を「むすびの地」に選んだのだろうか。到着した、むすびの地記念館で、同市教委の山崎和真学芸員に尋ねると「大垣には元々、芭蕉と親しい人々が多くいた」のだと解説してくれた。

 芭蕉が大垣を初めて訪れたのは1684(貞享元)年、「のざらし紀行」の旅の折。同地の中心的俳人で船問屋の主人、谷木因(ぼくいん)の招きで訪れた。芭蕉は、その後も何度か大垣を訪れ、友人や門人も多くいたという。

 さらに、芭蕉が「ほそ道」の旅で大垣訪問を早い段階から考えていたことを示唆する資料もある。まず旅の出発前、芭蕉が熱田(名古屋市)の門人に出した1689年2月15日付の手紙には、すでに美濃訪問の予定が記されていた。一方、芭蕉が美濃・岐阜の門人2人に出発数日前に出した3月23日付の手紙では、美濃行きには触れていない。

 当時、美濃国内の芭蕉の門人は、岐阜と大垣に比較的多くいたが、この3通の手紙から、芭蕉は早い段階で岐阜ではなく大垣訪問を決めていたのではないか―と考えられている。

 親しい人...次々と

 いずれにしろ大垣は、俳聖に愛された町である。この時、芭蕉は約2週間滞在した。その間の朗らかさは「ほそ道」からひしひし伝わってくる。途中別れた曽良が駆け付ければ、名古屋の門人、越人も馬を飛ばして来た。地元の門人、前川子(ぜんせんし)と荊口(けいこう)の親子も―と、芭蕉の元に集まった親しい人々の名が次々と上がる。敦賀の人の言葉を借りると、まるで映画の最後に出演者の名前が流れるエンドロールだ。それもハッピーエンドの。

 さらに言えば、最後の最後は、映画の「フェイクエンディング」(偽の結末)である。エンドロールの後、旅を終えたはずの芭蕉が、再び旅に出ると言う。大垣・船町の川港で船に乗り、遷宮が行われている伊勢神宮を目指して。そして「終」マークの代わりに〈蛤(はまぐり)の/ふたみにわかれ/行(ゆく)秋ぞ〉蛤が蓋(ふた)と身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋にも別れを告げ、二見(伊勢の二見浦)に向かって旅立つの意―の句。

 物語は終わっても旅は続く。人生は簡単には終わらない...そんなことを芭蕉も考えたのだろうか、と思いながら「まわり道」の旅も一区切りである。

【大垣】<蛤のふたみにわかれ行秋ぞ>