【日光~那須野ケ原】<かさねとは八重撫子の名成べし> 曽良...即興の一句

 
かつてのぼう漠とした那須野ケ原の面影を残す田園地帯。水田の上の雲が馬のように見える=那須塩原市一区町

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅は1689(元禄2)年4月(旧暦)の初め。日光(現栃木県日光市)で東照宮を参詣した松尾芭蕉と河合曽良は、ここから一路東を目指す。

 だが、日光出発前にもう1エピソード。「曽良日記」によると旅の5日目、4月2日(陽暦5月20日。「ほそ道」では4月1日)、つまり東照宮参詣の翌朝、二人は快晴の下、上鉢石の宿をたち約4キロ西の裏見(うらみ)の滝と含満(がんまん)ケ淵(ふち)を見物する。こう記すと〈東照宮=本番〉後の「消化試合」だが、裏見の滝は芭蕉をひき付けた。

 「ほそ道」では滝が流れ落ちる光景を迫力をもって描写。さらに滝の裏の岩窟へ下り、その名の通り滝を裏側から見つつ

 〈暫時(しばらく)は瀧(たき)に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)〉

 僧侶が一夏を修行に暮らす夏籠(げごもり)にちなみ自分は風雅のために籠もる(佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」より)と詠んだ。

 実際に現地を訪れると、滝自体は巨大というほどではないが、ごうごうという水音が狭い谷あいを覆い、非日常的な雰囲気が漂う。きらびやかな東照宮とは全く異質な空間が、芭蕉の詩情を刺激したのだろうか。

 夜の山中で難儀

 さて先を急ぐ。日光の山巡りの後、芭蕉一行は4月2日昼ごろ、「知人」がいる黒羽(現栃木県大田原市黒羽)へ向かった。

 黒羽は、東照宮周辺から直線距離で約50キロ東にある城下町。「ほそ道」では「野越(のごえ)にかゝりて直道(すぐみち)をゆかんとす」とあり、二人は今市(日光街道の宿、現日光市)―大田原(奥州街道の宿、現大田原市)間を真っすぐ結ぶ日光北街道(国道461号に相当)を選んだ。黒羽は大田原から9キロほど東だ。

 確かに近道だが、大田原までは平たん地と山道が交互に続き芭蕉らは苦難を強いられた。船生(現塩谷町)の辺りか、強い雷雨に遭い、日も暮れ、たどり着いた玉生(同町)で1泊する。

 過酷さは曽良日記のデータからも分かる。日記には宿場間の距離が詳しく記録されているが現在の地図と比べると、玉生前後の距離だけ今の道より長い。日記では船生―玉生―鷹内(現矢板市幸岡)計4里8丁(約17キロ)に対し、現在の国道では約9キロ。塩谷町文化財保護審議会の早坂久委員長(70)に聞くと「昔の道は山の中を曲がりくねって走っていた。最短距離で造られた今の道は参考にならない」。夜の山中での二人の難儀が想像されるだろう。

 聞き慣れぬ名前

 高低に富んだ道も矢板(現矢板市)を過ぎ平たんになり、ぼう漠たる那須野ケ原へ続く。和歌に「那須の篠原」として詠まれたこの広い原野で、芭蕉は「ほそ道」序盤のハイライトともいうべきドラマを描いた。

 旅の6日目、4月3日。ひたすら歩き続ける芭蕉らは、放し飼いの馬を見つける。草を刈る男に懇願すると、馬を貸してくれた。馬と行くと、子ども2人が後を走ってくる。1人の娘に名を聞くと「かさね」と言った。聞き慣れないその名の優美さに曽良が即興の一句を詠む。

 〈かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名成(なる)べし〉

 かわいらしい子やいとおしい人を撫子に例えて詠む例が「源氏物語」などにある。ならば「かさね」という名は、花びらを八重に重ねた八重撫子の名だろう―。

 辺境の原野に咲く小さな花のような少女との出会いは、ほんのり温かな色彩を想起させ、同時に、どこまでも続く空と草原の広がりを感じさせる。

 この場面については、潁原(えばら)退蔵・尾形仂(つとむ)訳注「おくのほそ道」で、謡曲「錦木」などの古典を連想させる道具立てで構成された「夢幻劇」だと指摘しているように、フィクションとするのが一般的だという。ただ和洋女子大の佐藤勝明教授は「なかったとも断定できない」と自著に記している。

 いずれにせよ、道路が延び、建物が増えた現在の那須野ケ原では、広大な原野は姿を消し、広々とした空だけがドラマの余韻を残している。

 (原文の解釈は潁原退蔵・尾形仂訳注「おくのほそ道」、佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」を参考にした)

日光~那須野ケ原

 【 道標 】黒羽の城代家老は弟子

 松尾芭蕉が日光から目指した黒羽は当時、大関氏が治める黒羽藩1万8000石の城下町でした。大関氏は外様でありながら、戦国時代から明治維新まで約300年間、同じ地域を統治し続けた、全国でも数少ない大名です。
 この黒羽藩で、芭蕉が訪れた当時、城代家老を務めていたのが浄法寺(じょうぼうじ)高勝、29歳。実弟の鹿子畑(かのこはた)豊明(28歳)とともに俳諧をたしなみ、芭蕉とも交流のある人物でした。兄は「桃雪」「秋鴉(しゅうあ)」、弟は「翠桃」の俳号で知られます。芭蕉が「おくのほそ道」で、那須の黒羽の「知人(しるひと)」と書いたのがこの兄弟たちでした。
 兄弟の父、鹿子畑高明は、同藩の家老だったのですが失脚し、許されるまで十数年間、黒羽を離れ江戸で暮らした時期がありました。この時、兄弟も江戸で暮らしながら、芭蕉に入門し俳諧を学んでいたと考えられています。
 つまり、芭蕉と高勝・豊明兄弟は師弟の関係にあり、二人が黒羽を訪れた師を歓待したことが、当時の手紙や日記からも分かっています。(大田原市黒羽芭蕉の館学芸員・新井敦史さん)(インタビューを基に構成しました)