【夏の高校野球・白球の記憶】準V磐城、徹底研究「データ野球」

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当時を振り返る宗像さん

 全国高校野球選手権大会が100回の歴史的な節目を迎える。毎年数々のドラマが生まれ続ける聖地・甲子園。深紅の大優勝旗を目指し県代表の誇りを懸けて戦った球児たち、汗だくで白球を追い甲子園を目指した球児たち。その姿は今も色あせず語り継がれる。1世紀に及ぶ福島の高校野球史を振り返る。

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 1915(大正4)年に始まった第1回大会は、全国9地区の代表校と春の東京大会優勝校の計10校で争われた。県勢の東北予選出場は第2回大会の福島師範と会津中が初。そして県勢初の甲子園出場は84年前の第20回大会にさかのぼる。東北を制した福島師範は2回戦、秋田中(秋田県)に1―5で敗れた。

 その翌年に福島師範、さらに福島商が3度の出場を果たすが勝利には手が届かなかった。

 第40回からは5年ごとに1県1校が出場できるようになり、63年の第45回大会で磐城が丸亀商(香川県)を下し、県勢初勝利を挙げた。そして8年後の71年。今も語り継がれる「コバルトブルー旋風」が甲子園に巻き起こる。

 優勝候補を破り勢い

 「『やった、やった』浜にこだま」。71年8月12日の福島民友新聞朝刊に磐城高の初戦突破を伝える見出しが躍った。平均身長167センチで"チビっ子軍団"とも呼ばれた磐城ナインは、初戦の2回戦で優勝候補日大一(東京都)を1―0で破ると勢いに乗り、決勝の舞台にまで上り詰めた。

 走者を犠打で進め堅実に1点を狙う攻めと決勝まで無失点を続けた守備力。当時3年生で2番中堅手だった県高野連顧問の宗像治(64)は「相手チームを徹底的に研究して試合に臨んでいた」と当時を思い起こす。試合ごと、相手チームのサインやプレーの癖、選手の身長、体重まで頭にたたき込んだ。「(監督から)校長の名前にまで質問が飛んだ。試合を勝ち抜くにはそれぐらい相手のことを知れと言われたんだ」とその厳しさを今となっては笑う。

 万全対策...決勝で誤算

 決勝の相手は初出場の桐蔭学園(神奈川県)。対策は万全だったが誤算があった。右下手の相手エースの速球が走らず、速球に照準を合わせていた磐城打線のタイミングが合わない。6回まで2安打と打ちあぐね、ゴロとフライアウトは14を数えた。「いつかは捉えられる。そういう感覚だった」。磐城のエースだった田村隆寿も連投で球威は落ちていた。それでも生命線の制球力でかわし6回まで被安打4の無失点。張りつめた空気が球場に漂う。7回、桐蔭学園に三塁打を浴びると、三ゴロの後、6番打者に左中間への適時三塁打で均衡は破れた。九回、2死三塁と一打同点に迫ったが最後は力尽きた。100回目を迎える歴史の中で県勢唯一の決勝の舞台となった。(敬称略)

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