【夏の高校野球・白球の記憶】私立台頭...勢力図変えた学法石川

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当時を振り返る小椋さん

 「苦の中に光りあり」「山を越えたら、また山があった」。1976(昭和51)年の第58回全国高校野球選手権福島大会。数々の名言を残した名将柳沢泰典=99年、54歳で死去=に率いられた学法石川は、私立高として初の栄冠を手にする。

 地区予選敗退が常だった弱小チームの監督に柳沢が就任したのは67年、22歳の時だった。自ら運転するバスで選手を甲子園に連れて行き、意識を変えた。就任10年目に甲子園初出場を果たすと、チームを春夏通じて甲子園11度の強豪に導く。同校が甲子園初勝利を挙げた83年のエース小椋政彦(53)=ヨークベニマル執行役員=は「厳しい人だったが、選手の長所を伸ばしてくれた」と恩師を振り返る。

 この夏、小椋は1、2回戦を一人で投げ抜き、県勢8年ぶりの甲子園2勝を挙げる。しかし3回戦で全国との差を痛感させられる。横浜商(神奈川)打線に一方的に打ち込まれる。結果は3―19。「関東、関西の強豪校との差を感じた」

 名伯楽として存在感を示し続けた柳沢は就任30年の節目に監督の座を譲る。総監督として12度目の甲子園の土を踏んだ99年8月14日。「今日は初めてアルプススタンドからおまえたちを見るから」と選手を激励、その初戦を観戦中に倒れた。8日後、兵庫県の病院でそのまま息を引き取った。

 柳沢が残した数々の言葉の解釈は選手それぞれで異なる。ただ、小椋は「努力をすれば報われること」だと理解しているという。そして甲子園出場が遠ざかっている現状に「(柳沢監督は)一番思いの強いチームが行けるのが甲子園だと言っていた。また甲子園で校歌を聴かせてほしい」と、恩師の言葉を借りながらエールを送る。

 学法石川の台頭以降、公立高中心だった県内の高校野球の勢力図は大きく変わった。全国的にも私立の名門が活躍する中、県内でも日大東北などが力を付け、毎年のように優勝を争う名勝負を繰り広げる。そして聖光学院が昨年、戦後最長を更新する福島大会11連覇という金字塔を打ち立てる。甲子園初出場の初戦で0―20の大敗を喫した同校は、全国の強豪と肩を並べるまでに成長した。ただ春夏通じて県勢最多19度の出場を数える同校もまた、甲子園では8強の壁を越えられてはいない。(敬称略)

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