【つないだ襷・箱根駅伝100回】順大4連覇に両雄あり

 
順大の黄金期に活躍した畑中(右)と三浦。卒業後はともに本県の高校教諭となり、箱根駅伝に出場する教え子を育てた

 東京・大手町のビルの谷間に青色のジャージーを着た選手が歓喜の輪をつくった。1989(昭和64)年1月3日。昭和最後となる第65回大会で順大が4連覇を達成した瞬間だ。「ここにいるのが私だ」。当時4年生の優勝メンバーで黄金期を築いた畑中良介と三浦武彦は自身が写る数少ない写真の1枚を指さし、都心の真ん中で監督を胴上げした光景を脳裏に浮かべる。

 箱根駅伝は87年に日本テレビの生中継が始まった。それ以前は現在ほどの人気はなく、畑中は高校時代に正月のラジオ実況を聞きながら「自分も走る妄想を膨らませた」と憧れを抱いた。一方の三浦はどんな大会なのか知らず「2日間もやるので、夜中も走るのかと思った」と笑う。

 順大で精鋭ぞろいの環境に身を置き、データ重視のスポーツ科学に基づく練習を積んだ。最大酸素摂取量や筋力機能をチェックして能力を探り、血液中のヘモグロビンを測定して調子の良しあしを見極める―。最先端の指導法だった。

 畑中は1年時に1区で起用された。実は「当て馬」で当日のエントリー変更に伴い外れる予定だったが、主力の故障もあってそのまま出走した。ベストを尽くしたが区間10位に終わり、「初出場でレベルの高さを痛感した」と意識を高める経験になった。

 4連覇が懸かる4年時は三浦が1区を走った。1万メートルの持ちタイムが出場選手唯一の28分台を誇り、大会屈指のランナーだった。周りがけん制し、しばらくはスローペース。徐々にギアを上げ、神奈川県境に架かる六郷橋付近で単独トップに出た。日体大に約30メートルまで詰め寄られながらも1位でたすきをつなぎ、「目標の区間賞を取れて最高の気分だった」。

 順大は往路を制したが、山下りで日体大に抜かされた。6区で15秒差、7区で1分59秒差に広がる誤算。8区畑中は焦りもある中で懸命に前を追いかけ、差を4秒縮めて区間賞を獲得した。この踏ん張りが呼び水となり、逆転優勝につながる。「9区にエースが残っていた。充実したメンバーが『復路の順大』と言われた由縁」と勝因を挙げる。

 昭和天皇の容体が悪化しており、閉会式では恒例の万歳三唱を自粛した。1月7日に崩御されてから中止や延期になる学生スポーツの大会もあり、畑中は「箱根の舞台を走れなくなる不安もあった」と回顧する。

 2人は卒業後に高校教諭となり、本県で選手育成に心血を注いだ。三浦は教え子4人が箱根ランナーになった。畑中は原町高で後に順大で「山の神」となる今井正人を指導し「教え子が自分の母校に進み、活躍してくれたことは冥利(みょうり)に尽きる」と力を込める。

 大学時代から30年以上がたっても、黄金期の活躍を伝える新聞記事のスクラップをめくれば2人の思い出話は尽きない。「後輩には、応援する側がわくわくするような走りを見せてほしい」と畑中。毎年この時期になると、"愛校心"が人一倍強くなる。(敬称略)

2人の箱根駅伝成績

 みうら・たけひこ 二本松市出身。安達高、順大卒。大学3年の日本インカレ5000メートルで優勝。同4年は陸上競技部主将を務めた。本県の高校教諭として福島東、福島、福島明成などで陸上を指導し、現在は安達に勤務する。2015年から福島陸協理事長。57歳。

 はたなか・りょうすけ 双葉町出身。双葉高、順大卒。高校3年のインターハイ5000メートルで2位。大学4年の時に陸上競技部駅伝主将。本県の高校教諭に採用され、原町、田村の監督として全国高校駅伝を経験、現在は福島で陸上の指導を続けている。56歳。

当時を伝える新聞記事1989年の順大4連覇を伝える福島民友新聞

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