【浜通り13物語】第3部・2人の相談役/家と人をつなぐ存在に

 
復興の拠点となるコンパクトタウン整備や沿岸部での復旧工事が進められていた2016年9月の楢葉町。鹿股亘氏も住宅リフォームなどを通じて地域再生の一翼を担っていた

 転職し住宅修繕

 「うちは後継者がいないから、そのつもりで来ないか」。2014(平成26)年春、富岡町出身の鹿股亘は、建築設計事務所を営む地元の先輩から誘いを受けた。東京電力の関連会社「東双不動産管理」に勤務していたが、11年の福島第1原発事故後は建物の被害調査や仮設建物の設置などが主な仕事になっていた。一般住宅に携わるのが夢だった鹿股は、誘いを真剣に受け止めた。

 ただ、一抹の不安があることは否めなかった。富岡町は、原発事故による避難指示が続いており、先輩の事務所もいわき市に移転を余儀なくされていた。地域の将来が全く読み切れない中での人生の選択だった。「俺ができることはなんだろうか」。鹿股は自らの心と向き合った。

 地元での建築やリフォームに関われば、古里に残したい建物を残す道が開けるし、必要な建物は新しく自らの手で造ることができる。避難で人は双葉郡から離れたが、土地や建物は残されたままになっている。老朽化して全て処分されるようなことになれば、避難した人と地元の縁は完全に切れてしまうのではないだろうか。「その間を取り持つような存在になりたい」

 職場に辞意を告げた後、1年をかけて仕事を整理し、15年3月に退職。4月には先輩が代表を務める「一善建築設計室」に専務として入社した。9月に避難指示が解除された楢葉町などで、帰還する人のための住宅リフォームに汗を流した。双葉郡からいわき市に避難している人も多く、彼らが購入した住宅の修繕などにも取り組んだ。

 富岡町内での公共工事や双葉郡内での住宅の新築工事なども手がけていった。「静まり返っていた地域が、少しずつだが息を吹き返していくようだった。毎日わくわくして現場に向かっていた」と振り返るほど、地域貢献につながる日々に確かな手応えを感じていた。17年4月に富岡町の避難指示が解除されると、18年2月に富岡に事務所を戻し、さらに仕事に腕を振るった。

 この間、高校時代からの旧友で「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」の太王(だいおう)を務めていた浪江町出身の八島貞之、かつての部下で「タイズスタイル」をいわき市で起業した大熊町出身の吉田学ら建築士仲間との交友は続いていた。時には吉田の高校の同級生らとも酒席を設けた。

 震災10年の節目が近づく頃、吉田は鹿股と八島に「自治体の枠を超えた浜通りの連携組織をつくるので、協力してもらえませんか」と打診してきた。鹿股と八島は話し合った。「俺たちもう、青年って年じゃないよな」。意見は一致した。(文中敬称略)