回想の戦後70年 スポーツ編−(5)円谷幸吉

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 戦後間もない1940年代後半、夜の須賀川市に、街中を集団で走る若者たちの姿。お年寄りの女性がけげんそうな顔で声を掛ける。

 「何やってんだ?」

 「須賀川駅まで走るんです」と若者が答えると、女性はすごいけんまくでどなり出した。

 「この食糧難の時代に、なに腹減らしてんだ!」

 「走っていて怒られるなんて、今じゃ考えられないよね」。10代後半だった同市の松崎昭雄さん(82)は振り返る。「当時はスポーツに打ち込もうと思っても、野球のグラブは買えない。水泳には川に行かなきゃならない。一番手軽な陸上に、青春を懸けた」

 松崎さんら走る愛好家の仲間が意気投合し、始めた夜の駅伝練習。メンバーの1人、円谷喜久造さん(83)の弟が、ある時から参加するようになった。「風呂たきが終わったら、走っていいと言われたんだ」。厳格な父親の顔色をうかがいながら、走ることを始めた青年。後の東京五輪マラソン銅メダリスト、円谷幸吉だった。

 喜久造さんは戦後しばらくして、家の土台などの材料となる砂利を馬車で運ぶ仕事に就いた。復興へと歩みを進めた50年代初め、市内に建設現場はあふれていた。「同じ走る者同士、幸吉のほしいものが何か、理解できた」。練習に励む弟に食べ物を買う小遣いを渡そうと、馬車で回る現場を増やして小金を稼いだ。

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 64(昭和39)年10月、東京五輪が開幕。21日、マラソンコースとなった甲州街道の沿道に、はちまき姿の松崎さんら、同市からの応援団がいた。終盤、ゴールの国立競技場に向けエチオピアのアベベがトップで通過。しばらくたって、見えてきたのは円谷の姿。応援団約70人の熱狂は頂点に達した。

 同市で酒販店を営んでいた松崎さんは、当時非常に忙しかったことを覚えている。「アルバイトを2人雇ってばりばり働いた。納税額がトップだったとして、税務署長から表彰を受けたこともあった」

 この年、東海道新幹線が開業し、カラーテレビの普及も進んだ。銅メダルを獲得し同市に凱旋(がいせん)した円谷は、ジープに乗って市内を行進。松崎さんは円谷の輝かしい活躍に、成長に向けてまい進した当時の日本経済や家業の状況を重ねる。「一番いい時代だった」

 東京五輪から4年後の68年1月9日正午前、バイクで配達中の松崎さんの耳に、そばを走る車のラジオから信じられないニュースが漏れ聞こえてきた。

 「そんなはずはねえ」

 急いで家に帰ると、新聞記者がいて、尋ねてきた。「幸吉さんが亡くなったということですが...」

 ベトナム戦争がさらに泥沼化し、大学紛争が吹き荒れた年。円谷の死は人々に大きな衝撃を与えた。

 「呼ばれたら返事を」「人にはあいさつを」。厳しいしつけの下で育った円谷は、誰にでも愛される好青年だった。真面目で明るかった。親しい人々が事態を理解するのには時間がかかった。

 「メキシコ五輪を控え、さまざまな問題を抱えてしまい、疲れ切ってしまったのだろう」と、喜久造さんは振り返る。

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 今は酒販店をやめた松崎さんは、「第二の円谷」の登場に期待を掛けて「円谷幸吉メモリアルマラソン」の運営に携わった。「あの時代を象徴するヒーローだったね」。当時の写真を収めたアルバムをめくりながら、つぶやいた。

 円谷が一気に駆け抜けた短い人生。それは、豊かさを求めてがむしゃらに働いた同時代の県民の心に、熱狂と、一抹のもの悲しさの思い出と共に息づいている。

 円谷幸吉と五輪 円谷は1964(昭和39)年の東京五輪で1万メートルとマラソンに出場した。1万メートルで6位入賞を果たして臨んだマラソン。円谷はエチオピアのアベベに続く2位で国立競技場に戻ってきたが、ゴール直前で猛追してきたイギリスのヒートリーに抜かれ、銅メダル。日本中が熱狂に包まれた。メキシコ五輪の開幕を10月に控えた68年1月、東京都練馬区の自衛隊宿舎で自ら命を絶った。「父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました」で始まる両親ら宛ての遺書を残した。