回想の戦後70年 食編- (2)喜多方ラーメン

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麺をゆでる坂内さん。「おいしいと言ってもらえれば、それ以上のことはない」と言う

 「うまかった」。店を出る老若男女の顔が満足度を物語る。庶民の味、国民食ともいわれるラーメン。たかがラーメン、されどラーメンの一杯が持つ力は大きい。笑顔あふれる光景が毎日のように町にあふれる。

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 蔵とラーメンのまち喜多方市。大正末期、中国から渡ってきた一人の青年が喜多方ラーメンの生みの親といわれる。その名は藩欽星(ばんきんせい)。家庭の事情で日本に渡り、都内の土木現場などで働き、鉱山で働いていた伯父を頼って喜多方の地を踏んだのは昭和に入ってからだった。「チャルメラ」を吹きながら屋台を引いて「支那そば」を売り歩いたのが、喜多方ラーメンの始まりとされている。

 戦後の混乱期、一杯のラーメンが庶民の空腹を満たし、復興に向けた活力を与えた。会津の戦中戦後を知る一人、会津若松市で飲食店三角屋を営む西田一彦さん(81)は語る。「みんなが明日食うのに困っていた。安くてうまいラーメンが力の元になったのは間違いない」。大正初期に創業した同店には、喜多方ラーメンを代表する店の創業者たちもラーメンを食べに訪れていたという。

 1958(昭和33)年創業の喜多方市の「坂内食堂」。のれんを受け継ぐ2代目坂内章一さん(56)は、協同組合「蔵のまち喜多方老麺会」の理事長を務める。ラーメン店の経営者として、亡くなった父新吾さんの言葉が忘れられない。「お客さんに出すのだから、うまくて当たり前」。そして、実際に「うまい」と言ってもらえればそれ以上のものはないという。

 「いろんな人に支えられてここまでくることができた。町の人たちも、観光客に親切に店の場所を教えてくれた」と話す坂内さんが、何より強調するのは、行政の力だった。「官民一体、役所が協力してくれた。背中を押してくれた」

 行政側の立役者は、同市の元市職員、富山昭次さん(77)だ。82年に観光課に配属された時は「観光の『か』の字も知らなかった」と照れ笑いを浮かべる。富山さんが目を付けたのがラーメンだった。

 蔵を巡るだけの観光では3時間で終わってしまう。思案しているころ、県の職員が役所を訪れた。「お昼は何にしますか」と尋ねると、「中華そばが食べたい」と言う。友人や知人が正月やお盆に帰省すると、中華そばを好んで食べる姿が思い出された。何より自身も毎日のように380円の塩ラーメン、しょうゆラーメンを交互に食べていた。

 ちょうど、日本交通公社の出版による雑誌「るるぶ」のページを県観光連盟が買い上げるという話が持ち上がった。その1ページを喜多方市が買う。富山さんは、ラーメンを宣伝することを決めた。

 親しい友人に相談すると「笑われっからやめろ」と笑われた。しかし、周囲の反対を押し切って富山さんが書いた原稿は、83年の7月号特集「福島路のんびり旅行」の1ページに載った。

 これが反響を呼んだ。徐々にマスコミの取材が増え、観光コースにもラーメン店を入れると喜ばれて観光時間の延長につながった。当然、地元に入る金も増えていった。

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 極め付きは、ラーメン好きで知られた落語家、初代林家木久蔵(現・木久扇)さんの存在。三角屋主人の西田さんも「喜多方ラーメンは何と言っても木久蔵さん」と力を込める。木久蔵さんは82年、NHK東北アワー「東北のめん」で喜多方ラーメンを紹介。迎えた85年、「おはようジャーナル―追跡ラーメンの香りただよう蔵の町」の放送で喜多方の知名度は急騰した。

 富山さんは、喜多方ラーメンの繁栄のそもそもは喜多方の資源だと断言する。おいしい水があるからおいしい酒ができる。そして生まれたのが喜多方ラーメンだというのだ。

 地元が誇る資源を生かし、庶民が作り上げ、戦後の貴重な活力源ともなったラーメン。そして今も、ラーメンを愛するさまざまな人によって支えられ、その味が受け継がれていく。

 喜多方ラーメン 基本的にはしょうゆ味がベースになっているが、店舗によって味もスープも千差万別。麺の太さ、縮れ具合、コシも異なる。「平打ち熟成多加水麺」と呼ばれる一般的な麺よりも水分を多く含んだ麺を使っているのが大きな特徴で、麺の幅が約4ミリの太麺が一般的とされる。札幌、博多と並び日本三大ラーメンと評されることもある。喜多方老麺会は喜多方市の約120軒のラーメン店がつくった団体で、1987(昭和62)年に誕生。発足時に発行したラーメンマップは爆発的人気を集めた。食べ歩きマップの先駆け的存在とされている。