回想の戦後70年 漫画・特撮編−(1)引き揚げ

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 日本敗戦の1945(昭和20)年8月15日。「まだ死ぬのはイヤだな...咄嗟(とっさ)にそう思った」

 2010(平成22)年に亡くなったいわき市出身の漫画家、故山口太一さんは生前、随筆を含め100冊以上出版した。しかし、戦争体験を記した作品は、ほとんどない。「まだ死ぬのは--」は、唯一「敗戦体験」を記した随筆の挿絵に手書きした言葉だ。

 「心の古傷として、胸の奥深くにしまったままにしてある。それは、私にとって一番辛(つら)い記憶でもあるからだ」(「ぽく平のつぶやき」月刊りぃ〜ど)

 山口さんがそう振り返る、敗戦直後の中国での引き揚げの記憶は、戦後長く封印された。

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 山口さんと家族は満州(現中国東北部)・大連の北にある普蘭店(ぶらんてん)で敗戦の日を迎えた。国民学校(現在の小学校)の4年生だった。

 中国引揚げ漫画家の会著「もう10年もすれば...」(今人舎)によると、山口さんは3歳のときに家族で大連へ渡り、戦後は46年12月、大連からの引き揚げ第1便となる辰春丸で帰還した。

 戻った故郷いわきでも苦難が続いた。中学1年で祖母、その2年後には母を亡くした。いわき市の情報誌「月刊りぃ〜ど」の編集長鈴木滋さん(65)は「山口さんは、親戚の手伝いで忙しく、高校入学も1年遅れた」と話す。

 引き揚げ後、山口さんを引きつけたのが漫画だった。小学5年のときには、雑誌「漫画少年」に投稿し、ストーリー漫画で特選に選ばれた。

 曲折を経てプロの漫画家になった山口さんは、70年代から学習研究社(現学研)の学習雑誌に掲載した推理漫画「名探偵荒馬宗介(あらまそうかい)」がヒットした。「一時は『六年の学習』など発行部数50万〜60万部の雑誌3誌に連載する売れっ子。親しみやすく個性的な作風が、子どもたちに人気だった」と、長く山口さんと仕事をした元学習雑誌編集者の師岡秀治さん(64)は話す。

 「穏やかに話す人だが、サービス精神旺盛」。師岡さんが覚えている山口さんは、飄々(ひょうひょう)として愛される人柄。戦争の話は全くしなかった。

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 山口さんがぽつりぽつり戦争を語り始めたのは戦後50年目の1995(平成7)年ごろだった。漫画家の森田拳次さん(76)や故赤塚不二夫さんら「中国帰り」の漫画家らが回想録の出版を企画し、山口さんも参加。引き揚げ船の光景を描いた。

 さらに4年後。山口さんは当時、月刊りぃ〜どで連載していた随筆「ぽく平のつぶやき」で2回にわたり、8月15日とその直後の体験をつづった。4年続いた連載の終わりに、鈴木さんが「書き足りなかったら、自分のことを書いてみては」と言うと、原稿が届いた。それが、山口さんのほぼ唯一の敗戦体験の手記になった。

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 満州・普蘭店で8月15日を迎えた山口家は父が軍に召集されて不在。山口さんと母、祖母、兄と弟、妹の6人だった。この時、母は「ソ連が攻めてくるから学校で軍事教練用の銃を借り、皆で死にましょう」と言った。

 「母が一人ずつ殺していくというのだ」。手記の1回目はこの言葉で終わった。タイトルカットの隅には「まだ死ぬのはイヤだな...」と、絞り出した言葉のように、小さく書かれていた。

 2回目の原稿では、母が心中を思いとどまった顛末(てんまつ)と、その後の現地人による暴動、脱出が文章と絵でつづられた。「地獄を見たんだ」と鈴木さんは言う。

 今も戦争体験の記録や出版に取り組む森田さんは「引き揚げ体験を持つ漫画家は、不思議とギャグ漫画を書く人が多い」と話す。そして山口さんの胸中を代弁するように言う。「悲しいことがあると、人は笑いたくなるんだ。戦後は一度きりでいいよ」

 

 山口 太一さん(やまぐち・たいち。本名・太一=たかかつ)1935(昭和10)年いわき市生まれ。磐城高卒。45年8月24日、満州・普蘭店から大連に逃れ、引き揚げまで潜伏生活を送る。高校卒業後、漫画家加藤芳郎に弟子入りするが数カ月で挫折し帰郷。炭鉱勤務の後、再び上京。この間、新聞などに投稿、24歳のとき4コマ漫画「Qさん」でデビュー。75年「六年の学習」で連載が始まった「名探偵荒馬宗介」は「五年の学習」などにも連載され83年まで続いた。このほか「マガーク少年探偵団」(挿絵)など。漫画集団所属。いわき市サンシャイン大使を務めた。享年74歳。

 引き揚げ 敗戦時、海外にいた日本人は軍人・軍属を含め660万人以上で、戦後、日本に続々と帰国した。1946(昭和21)年末までに軍人・軍属、一般人を合わせ509万人が日本に引き揚げた。海に面した大連からの引き揚げは、46年12月から49年まで3回にわたり行われた。本県関係では、一般人の引き揚げ者は50年までに7万2700人に上った。大半が中国東北部からで、引き揚げの途中などで5674人が死亡した。