【郡山・日和田】<茨やうをまた習ひけりかつみ草>歴史に埋もれた幻の花

 
安積山公園の丘の上から旧奥州街道が続く北西を望む。芭蕉がどれほど熱心に花かつみを探したかは分からないが、街道を北上したのは確かだ=郡山市日和田町

 松尾芭蕉と河合曽良が郡山宿をたったのは1689(元禄2)年5月1日(陽暦6月17日)の早朝、日の出のころだった。

 江戸を旅立ったのが同年3月27日(同5月16日)だから、「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅も、ほぼ1カ月が経過していた。疲労がたまっていただろう。だが、この日の芭蕉たちには、快活さがあふれていた気がする。

 故事に残る名前

 曽良の「日記」によると、天気は快晴。自然と気分も上がっただろう。そんな臆測を差し引いても、芭蕉の上機嫌は「ほそ道」の文から伝わってくる。

 「等躬(とうきゅう)が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有(あり)」

 この一文が、須賀川の場面のすぐ後に続く。俳聖の筆は、檜皮の宿、つまり奥州街道・日和田宿(現郡山市日和田町)で久々に動き始めた。待望の目的地だったからである。

 あさか山、つまり安積(浅香)山は、和歌〈浅香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに〉(「万葉集」巻十六 三八〇七)などと詠まれた有名な歌枕。それが当時、日和田宿周辺だったといわれていた。

 ただ、芭蕉の「本命」は、この安積山付近の「安積(浅香)沼」であり、沼に生えているという「幻の花」だった。
 芭蕉たちが須賀川の相楽等躬の元に残した詩文のつづり「芭蕉・曽良・等躬三子三筆詩箋(しせん)」(須賀川市立博物館所蔵)のうち、等躬の文にこうある。

 「(芭蕉たちと)話をしていると『安積郡浅香山の浅香沼は、ここからどのくらいの距離か』と聞かれた。浅香山は、日和田宿を越えて一里塚の近くにある。浅香沼は、何でもない田の溝などを今は呼んでいるのでしょう。藤中将(とうのちゅうじょう)の花かつみの故事も、花かつみが何なのかも、今は知る人はいなくなった―と答えた」(意訳)

 そして等躬の一句が続く。

〈茨(ふき)やうをまた習ひけりかつみ草(ぐさ)〉「藤中将に教えられて、かつみ草でさし飾すという新しいことを、またひとつ知りました」の意(須賀川市立博物館)。

 藤中将は平安時代中期の貴族で歌人の藤原実方(さねかた)。左遷され陸奥国(現在の東北地方)に赴任した。故事とは、陸奥に来た実方が、端午(たんご)の節句で軒にさすショウブがないのを知り、安積沼の「かつみ」で代用するよう命じた―というもの。

 等躬の文からすると、どうやら芭蕉は、この忘れられた植物「かつみ」に、以前からロマンをかき立てられていたようだ。

 そして、ついに目的地にたどり着いた。「ほそ道」によると、芭蕉は安積山付近に来ると「どの草が花かつみか」と地元の人々に尋ねた。しかし誰も知らない。沼を探し「かつみ、かつみ」と花を求め歩きまわったが(見つからぬまま)日が暮れてしまった―。幻の花に翻弄(ほんろう)される俳聖の姿が、テンポよく、どこか滑稽に描かれている。

 ただ、この日、芭蕉は福島城下まで歩いており、かつみ探しで日は暮れてはいない。芭蕉には、演出過剰でも印象的に記したかった場面なのだろう。

 時代超えて咲く

 では、この「かつみ」「花かつみ」、正体は何なのか。

 郡山市日和田町で旧奥州街道、現在の県道須賀川二本松線をたどると、アカマツ林が目につく。しかし沼はない。水田が安積沼の名残か。辺りを回るうち「まるで芭蕉の気分」と思う。

 同市日和田行政センターの近くで「安積山公園」の看板を見つけた。園内の丘が、安積山と伝えられた場所だ。入り口近くに「ハナカツミ(ヒメシャガ)」と書かれた案内板があった。

 ヒメシャガはアヤメ科の常緑多年草。開花期は5月という。時期が合わず、行政センターで花かつみの里づくり協議会の国分知通会長(84)と日和田町郷土史会の橋本誠さん(75)に会い、写真を見せてもらった。確かに花がショウブに似ている。

 誰が言ったのかは不明だが、国分さんたちは「日和田では昔からそう言われてきた。ショウブやアヤメの小さいものをイメージしたのだろう」と話す。1876(明治9)年、明治天皇が東北巡幸で、高倉村横森新田(現同市日和田町高倉横森)の休憩所に立ち寄った際、ヒメシャガを花かつみとして天覧に供した―との逸話も郡山市公式ウェブサイトなどに記されている。

 現在、ヒメシャガは「郡山市の花」だ。花かつみの里づくり協議会が、花の時期に展示会を開いたり、日和田地区の小学校では6年生が、卒業記念で苗を植えているという。芭蕉が探し求めた幻の花の種が今、花開いているような気がした。

【郡山・日和田】<茨やうをまた習ひけりかつみ草>

 【郡山市内の芭蕉句碑】市内には江戸時代から明治時代にかけ建立された芭蕉の句碑が多く点在し、芭蕉人気の高さを裏付けている。そのうち中心市街地の碑を紹介する。
  大慈寺「蝉塚」(清水台2丁目)は、芭蕉が「ほそ道」の旅の途中、立石寺(山形市)で詠んだ「閑さや岩にしみ入蝉の声」が刻まれている。1797(寛政9)年、当時の郡山俳壇の中心人物、佐々木露秀の門下、妙音寺露瀑法印の発案により、妙音寺(富久山町堂坂)に建立され、後に移された。
  三島神社「田植え塚」(西ノ内1丁目)は、須賀川の俳人市原多代女、当時88歳の筆で、「風流のはじめや奥の田植唄」の句がある。1873(明治6)年10月、芭蕉180回忌で多代女の門人たちが建立した。
  麓山神社の句碑(麓山1丁目、麓山公園内)は、真蹟(しんせき)懐紙「春の日」の「雲折々人をやすむる月見かな」を刻む。「時折雲が出て名月をさえぎり、一心に見とれている人にひと休みさせて、心にゆとりを与えてくれる」の意(今栄蔵訳)。西行の「山家集」所収の歌を踏まえた句。(この項は、安積国造神社・安藤智重宮司の協力による)

 【安積山公園】郡山市の都市公園。園内は、小ぶりな丘陵を中心に散策路「芭蕉の小径(こみち)」が巡り、「おくのほそ道」の日和田の一節を刻んだ芭蕉の碑がある。安積山と伝えられる丘の頂上付近には、アカマツの巨木がはうようにあり、全体が巨大な盆栽を思わせる。丘のふもとには、和歌に詠まれた「山ノ井」といわれる清水がある。
  ただし、山ノ井の清水は郡山市片平町にあり、安積山は片平町の西の額取山とする説も古くから市内では伝えられ、曽良も「日記」で帷子(かたびら)という村に山ノ井清水があるといわれる―と記している。
  日和田町郷土史会の橋本誠さんによると、伊達氏の記録「伊達治家記録」には、郡山の合戦(1588年)の際、敗れた伊達の兵たちが安積山に集結したとあり、以来、仙台藩主は参勤交代の途中、この丘で休んだと伝えられている。

 【花かつみの正体】花かつみは、「陸奥の安積の沼の花がつみかつみる人に恋ひやわたらむ」(「古今和歌集」第十四「恋歌四」、詠み人しらず)をはじめ、古くから和歌に詠まれてきた。
  日和田公民館長などを務めた森合茂三郎さんの著書「日和田の歴史探訪」によると、古書「松藩挿古」には、安積山の野生のショウブは、通常よりも色が赤く、カキツバタに似ている。花は四弁あるのが「かつみ」で、三弁がショウブと書かれてるという。また、その正体については江戸時代、多くの知識人が研究し、僧契沖はイネ科の「マコモ」、国学者の賀茂真淵は黄色い花をつける「カタバミ」としている。