【御斎所街道・全3回(2)】 難所を見守る「赤観音」

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自然石に彫られた「赤観音」と呼ばれる馬頭観音。眼下の御斎所街道を行き交う人々を今も見守る

 御斎所街道をたどる旅は石川町に入った。街道は石川郡に何をもたらしたのか。そう考えながら歩みを進めることにした。

 白河市方面から石川町に向かってくると、街道は国道118号と一度合流し、JR水郡線磐城石川駅から学法石川高の前を通り、町の商店街へと続いていく。商店街の辺りは石川宿と呼ばれ、にぎわいをみせた。

 歴史を知りたくなり、街道沿いに住む町文化財保護審議会長の小豆畑毅(あずはたたけし)さん(74)を訪ねた。「石川は物資の流通で繁栄した。石川郡の中心地としての地位は、御斎所街道による交通の力が大きい」。笑顔で迎えてくれた小豆畑さんが教えてくれた。

 町は、平安時代末期からこの地を治めていた石川一族が室町時代に築いたとされる石川城の城下町として形成された。1590(天正18)年の豊臣秀吉の奥羽仕置で領地が奪われると、城下町は宿場町へと姿を変えていったという。

 商店街の先にあるのが四ツ角と呼ばれる交差点。現在のいわき市や三春町、須賀川市、白河市へと続く道が交わる交通の要地だ。  石川宿は幕府や藩公認の宿駅ではなかったが、多くの商人や旅人の往来で栄えた、言わば庶民の道だった。

 馬を売買する馬市が開かれ、軍馬の供給地となった。昭和初めごろまで馬産地として知られていたが、馬の需要が少なくなると、牛へと変わった。これが現在の石川郡の重要産業の一つ、畜産業の発展へとつながっていった。

 四ツ角を右に折れ、街道を古殿町に向けて進む。街道は現在の県道よりも山手にあり、今も所々に道が残る。平たんが続くため、旅人にとって比較的楽な道だったはずだ。のどかな風景を眺めながら古殿町に入った。

 町を横断するように走る街道は、今も昔も住民にとって生活に欠かせない道だ。竹貫(たかぬき)宿と呼ばれた中心街には古い造りの酒蔵や旅館などが残り、宿駅の風情を感じさせる。

 さらに歩を進め、国道349号に分かれる交差点を過ぎる。右手に見える鮫川の対岸には、浜でとれた海産物と内陸の山の幸を売り買いする「交易所」として栄えた荷市場があり、江戸時代まで盛んに市が開かれていた。  今もひっそりと残る「市神の碑」が、活気あふれた往時の歴史を伝えている。

 再び街道を進み、右手に曲がると、標高842メートルと町で最も高い三株山(みかぶさん)を越え、いわき市に抜ける道につながる。塩の道として使われた峠道は、荷物を運ぶ牛が転ぶほどの険しさから「牛ころばし」と呼ばれた。その後、人の流れが増え御斎所街道が整備されたが、道幅が狭かった。矢を右肩に背負うと人とすれ違えないため、左肩に背負って通行していたと伝わる。

 難所を物語るのが山腹にたたずむ「赤観音」と呼ばれる馬頭観音。馬車の事故が多く、馬を供養するため自然石に観音が彫られた。観音は全身が赤く塗られ、鮮明なその色は独特の存在感を放つ。「一見の価値あり」だが、場所が分かりにくいためか、来る人も少ないようだ。「案内板があってもいい」と思った。

 観音の隣から見下ろした街道は車の往来が激しく、大型トラックが目立つ。時代は変わっても浜と内陸を結ぶ物流の道として今も生きている。いわき市の方角に目をやれば隆々とした山々がそびえる。「これから峠越え。海はまだ遠し」。旅人の心中を想像しながら赤観音に手を合わせた。

御斎所街道


 【 記者の「寄り道」スポット 】

 石川町字下泉にある町指定有形文化財「鈴木家門」写真=は、自由民権運動で活躍した鈴木荘右衛門・重謙親子の居宅の門。屋敷は残っていないが、明治時代に行政事務所の「会所」として使われ、石川区長として自由民権運動家の河野広中が赴任したこともある。町は屋敷の復元を計画している。

御斎所街道

 石川町字高田にある町立歴史民俗資料館(電話0247・26・3768)には石川郡で産出された鉱物が展示されている=写真。町は「日本三大鉱物産地」として知られ、石川の地名が付いた鉱物もある。町で採れる鉱物は種類が豊富な上、国内最大級の大きさを誇る結晶も多い。開館時間は午前9時~午後4時。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日の火曜日)。

御斎所街道

 古殿町田口にある道の駅ふるどの「おふくろの駅」(電話0247・53・4070)は地元の農産物をそろえ、食堂を併設する。食堂のメニューはそば、うどん、丼物と豊富。人気は天ぷらの盛り合わせと盛りそばがセットになった「おふくろそば」(税込み1200円)=写真。そばは手打ちで味、ボリュームともに満足できる。道の駅の営業時間は午前9時~午後6時。

御斎所街道