【下野街道・全3回(2)】 "結いの精神"息づく宿場

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江戸時代後期から明治時代にかけて建築された民家が並ぶ大内宿。「結いの精神」が景観を保ち続ける力となっている

 下野(しもつけ)街道をたどる旅は、さらに北上して下郷町に入った。国道121号にほぼ平行して流れる大川の清流を眺めながら進むと、同町の南の玄関口に位置した楢原宿に着いた。一直線に延びる国道沿いの両脇に白壁造りの家屋が立ち並び、街道らしい風情が残る。

 歩いていると、空高く枝葉を張り巡らせた巨木の姿が目に飛び込んできた。高さ30メートルはあるだろうか。ケヤキが境内にどっしりと構える楢原宿南端の円福寺を訪ねた。本堂に招き入れてくれた住職の信山俊洪(しゅんこう)さん(82)に宿場の歴史について尋ねると、信山さんが古い巻物を持ち出してきてテーブルいっぱいに広げた。寛永17(1640)年ごろに作成され、当時の楢原宿の町割り(土地の区画整備)を示した古い絵図という。

 「昭和初めの大火でも運良く焼失を免れた。宿場だったことを証明する貴重な資料です」。信山さんは絵図を大事そうに指さしながら、記された内容を細かに説明してくれた。道を挟んで縦長の家屋が鏡写しのように22戸ずつ整備され、中央には水路がある。間口が狭く、奥行きの深いかやぶき屋根の家屋が整然と軒を連ねる。幕府に納める米など重い荷物を載せた馬が水路で水を飲む風景が浮かんできた。「藤左エ門」「久兵衛」など家主の名前も書き込まれている。時代劇や歴史小説でなじみがあるためか、妙な親近感を覚えた。信山さんは「屋敷の大きさは変わっても、今の町割りは絵図と同じ。趣があるでしょう」とどこか誇らしげだった。

 楢原宿を抜けて10キロほど進み、今や県内有数の観光地として発展した大内宿へ。旧街道沿いの約500メートルにわたって並ぶかやぶき屋根の家屋は、かつての宿場町の姿をそのままにとどめる。平日にもかかわらず駐車場には大型の観光バスが止まり、宿場内は肩からカメラをぶら下げたツアー客らで混み合っていた。あちこちで中国語や韓国語と思える言葉が飛び交う。日本人だけでなく海外からの観光客も多いようだ。

 道沿いの両脇を通る石造りの水路には澄んだ水が流れ、ジュースなどの飲み物が冷やされている。近くの里山から雪解け水を引いているという。土産物屋を営む浅沼フミイさん(83)は「夏にはキュウリやトマトを冷やして食べるんだ。上流の水は飲むことだってできるんだよ」と教えてくれた。街並みだけでなく、豊かな自然とともに生きる昔ながらの生活が息づいている。

 一軒の民家でかやぶき屋根のふき替え作業が行われていた。男性だけでなく、手ぬぐいで頬かぶりした高齢の女性の姿も多い。「ふき替えは大変な作業だ。そういう時は、集落のみんなで協力し合う『結いの精神』が大事なんだ」。作業着に身を包んだ大内行政区長の長沼定由さん(62)は額の汗をぬぐい、往時の宿場町の姿を伝える理由を説明してくれた。

 他の宿場町と同じように大内宿も大火に見舞われたが、住民が助け合い、協力し合ったため復旧は早かったという。現在ある、かやぶき屋根の民家の多くは江戸時代後期から明治時代にかけて建築された。住民に受け継がれてきた「結いの精神」が景観を保ち続ける最大の力となっているようだ。

 「この素晴らしい景観が誇りだ。これからも守り続けていかなければならない」。長沼さんはそう話すと、軽やかにはしごを上り、ふき替え作業に戻った。

 古くから続く営みと変わらない風景。かつての旅人も見つめた原風景にしばしの間、見入った。

下野街道

【 記者の「寄り道」スポット 】

 へいほう石(下郷町豊成字楢原)=写真=は、江戸時代のころ、楢原宿に住んでいた怪力を持つきこりの玄蕃(げんば)がお手玉をしたと伝えられる巨大な丸い石。重さは約120キロある。伝説は下郷町民に語り継がれている。町内でも人気の観光スポットとなっている。

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 そば処大川(電話0241・67・3447)は自家製粉の十割そばが自慢。会津地鶏つけそば(税込み1000円)=写真=のほか、そばとアユの塩焼き、アユ飯などを楽しめる大川セット(同1500円)が人気。手打ちラーメンの会津地鶏つけめん(同900円)、炙(あぶ)りねぎチャーシューメン(同1000円)は店のお勧めメニューだ。

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 長い年月を経て浸食と風化を繰り返し、大規模な奇岩が並ぶ塔のへつり=写真。へつりは会津の方言で、川に迫った断崖や急斜面を意味する。国の天然記念物に指定されている。塔のへつりの周囲は樹木に覆われ、今の季節は奇岩と新緑が見事な景観を生み出し、観光客でにぎわっている。

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