【米沢街道・全2回(1)】 交通の要衝「大町四ツ角」

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米沢街道など五街道の起点となった大町四ツ角。かつては「札の辻」とも呼ばれた

 「何とも窮屈な交差点」というのが会津若松市の市街地にある大町四ツ角の印象だ。南北に走る真っすぐな道と、同じく真っすぐな東西の道が、かぎ形に微妙にずれて交差している。

 四ツ角は白河、下野、二本松、越後、そして米沢の会津五街道の起点であり、北東側の隅には石造りの道路元標(がんぴょう)が立つ。1874(明治7)年に建てられた元標は旅人の目印となった一里塚のようなもので、どの街道のどの宿駅まで何里というように、距離を知る上での重要な役割を担った。徒歩と荷車が移動の中心だった当時のことだ。

 四ツ角には藩政時代、諸制度の法令を記した高札(こうさつ)を掲示する制札場があり、「札(ふだ)の辻(つじ)」と呼ばれた。現在は「大阪屋」「紀州屋」「薩摩屋」「伊勢屋」など西日本の地名を思わせる屋号を持つホテルや商店が立ち並ぶ。

 先祖が西日本出身なのか、西日本から移り住んだ人が店を開いたのか、店主に聞いても答えは「分からない」とのことだった。

 大町四ツ角中央商店街振興組合の佐藤甚吾理事長(60)は「ここは江戸時代、交通の要衝だった」と話す。「地名に大町四ツ角とつくのは全国で、ここと鎌倉市内の二つだけ」という。

 四ツ角と、四ツ角からJR会津若松駅へと続く大町通りなどでは毎年1月、十日市が開かれる。縁起物を買い求める市民や観光客でにぎわう初市で、穀物屋が集まり相場を定め、群衆が南北に分かれて俵を引き合い、その年の米価を占ったのが始まりとされる。

 十日市と関わりが深い会津若松市大町にある田中神社の二瓶俊之宮司(50)は「庶民がこぼれた米を拾い集めて栽培し、五穀豊穣(ほうじょう)を願った市でもあった」と話す。

 この四ツ角から会津五街道では最後となる米沢街道をたどる旅に出発する。

 米沢街道は会津若松市と喜多方市、山形県米沢市を結ぶ道で、東から順に上街道、中街道、下街道の三つのルートがある。三つまとめて米沢側からは会津街道と呼ばれ、会津から山形県の出羽三山に向かう信仰の道でもあった。

 四ツ角から大正時代の街並みを伝える七日町に向かい、城北小前を過ぎ、会津若松駅前を抜け、一部で下街道と重なる国道121号を通って喜多方市を目指した。

 会津若松―喜多方間は会津縦貫北道路が開通したばかり。左手に見える縦貫道の交通量の多さに驚く。運送業者の事務所などが立ち並ぶ一帯を過ぎると、国道沿いにはのどかな田園地帯が広がる。周囲を見渡すと、会津が四方を山で囲まれた盆地だったことにあらためて気付く。

 道路標識の行き先「米沢」を確認しながら進み、湯川村へ。「ゆっくり走ろう会津路」の看板が目に留まる。確かに車の速度が上がる一本道だ。

 しばらく進むと、江戸時代に栄えた塩川宿がある喜多方市塩川町にたどり着く。塩水が湧き出して川に流れ込んだとの言い伝えが残る。

 猪苗代湖から会津盆地へと流れる阿賀川水系の日橋川を挟んで対岸にある浜崎宿とともに、塩川宿では1618(元和4)年に阿賀川水運計画が持ち上がり、会津藩主保科正之によって本格化した。

 両宿には河岸が整備され、阿賀川舟運の起点として発展した。現在、その面影は薄いが、陸の起点となった四ツ角とともに当時のにぎわいを想像するのも楽しい。宿場の風情を感じさせる街並みに一息つき、次の宿場の熊倉宿へと向かう。 

米沢街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 会津若松市大町の「昭和なつかし館」(電話0242・27・0092)は、銭湯や居酒屋など昭和30年代の10店舗を店内で再現しており、タイムスリップしたような感覚を味わえる=写真。写真撮影が可能なことも人気の一つ。当時を知らない修学旅行生も訪れる。入場料200円。見学後、姉妹店である「珈琲館蔵」のコーヒー100円割引券がプレゼントされる。営業時間は午前10時~午後6時。

 江戸時代後期に建築されたという会津若松市大町にある会津塗の老舗「鈴木屋利兵衛」(電話0242・22・0151)の大黒柱には戊辰戦争時の刀の痕が残る=写真。新政府軍が侵攻してきた際、会津藩の拠点として利用された。刀傷は試し斬りの痕とされている。大黒柱は1辺40センチほどあり歯が立たなかったように見える。

 会津若松市河東町の「代田まんじゅう本舗」(電話0242・75・2067)は1879(明治12)年創業の老舗和菓子店=写真。名物の代田まんじゅうは1個70円(税込み)。箱入りは12個920円(同)で15個入りと20個入りもある。どら焼き、だんごなども販売している。