【二本松街道・全3回(1)】 「馬の背状」坂続く城下町

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郭内から亀谷へ通じる二本松城下の「切り通し」。当時のまちづくりが、現在でも脈々と生きている

 二本松街道は会津若松、二本松両城下をつなぐ道。浜通りで作られた塩が会津へ、会津のコメが中通りへと、物資が行き来した。戦国時代には伊達政宗の侵攻で会津へと逃げ延びた人もいた。

 会津へ向かった旅人を思い、梅雨の晴れ間、二本松を出発した。

 二本松街道の名は、会津側から見た行き先の地名を表し、二本松側では会津街道となる。ただ会津街道と呼ばれる道は複数あり、混乱を避けるため二本松街道の物語とした。

 石垣が見事な霞ケ城の三の丸。左手に二本松少年隊のブロンズ像を見ながら石段を下りる。地面を掘ってつくった水路の「掘割(ほりわり)」の水音が心地よい―などと観光気分もつかの間。県男女共同参画センターの脇から急な坂道「久保丁坂」を上り始めると、汗が全身から一気に噴き出した。

 二本松は坂の街だ。霞ケ城の南を馬の背状の丘陵が東西に細長く2キロ以上続く。この両側に街と街道ができた。今も市街地は丘で南北に分かれ、それを久保丁坂や「切り通し」「亀谷坂」など古くからある数本の峠道がつないでいる。

 旅人も、この丘を越えた。福島方面から南下した奥州街道は根崎、竹田、郭内など現在の市街地北部に入り、丘を越え亀谷、本町など市街地南部に至る。ここから本宮宿までが二本松、奥州両街道の重複区間だ。

 さて炎天下、久保丁坂を上り下る。約700メートル行くと大手門があった本町で街道(現県道須賀川・二本松線)に突き当たる。だが、この傾斜が中年にはこたえる。

 丘には「観音丘陵」という名前があった。「遠くから見ると、観音様があおむけになった姿に見えるから」。大手門跡付近の菓子処「日夏」で14代目の日夏光子さん(54)が話す。先祖が二本松藩の剣術・小野派一刀流の指南番だからか詳しい。「切り通しの途中には、湧き水があったらしい」。夏はさぞ、ありがたかったことだろう。

 戦国時代、二本松から会津へ逃れた人々の末裔(まつえい)には、酒蔵の経営者が目立つ。その一人、末廣酒造(会津若松市)の7代目新城猪之吉社長(65)は「新城の名は、畠山氏が築いた新しい城の意味」だと言う。

 畠山氏は14~16世紀の二本松周辺の領主。現在の大玉村に新たな城、椚山館を築いた畠山氏泰が「新城」を名乗り、代々畠山家の重臣を務めた。畠山氏が伊達氏に滅ぼされた時の総大将も新城弾正(だんじょう)といった(「二本松市史」など)。

 戦国武士もこの道をたどったのか―と思いつつ城下を抜けると、次第に緑が深くなった。大玉村では、右手に安達太良の山並みと水田が広がっていた。

 本宮市に入ると徐々に宿場の面影が濃くなった。本宮宿は、会津や三春へ向かう街道が、奥州街道から分岐した交差点の街。阿武隈川沿いにできた橋と舟運の街でもある。

 本宮橋の手前の仲町では、珍しいドイツパンの看板を見つけた。

 ドイツパンは、ライ麦などを使った武骨なパンだ。「ここが県内唯一の製造販売店」とドイツパン工房ハルツの社長夫人伊藤美和子さん(56)は話す。

 伊藤家は代々町の世話役。明治以降も国会議員など政治家を輩出した家柄。伊藤仁社長(60)の父は元町長で、大叔父は「イヨマンテの夜」で知られる歌手の伊藤久男さん。進取の気性に富む一族らしい。

 道一本でつながる三春町の出身で自由民権家の河野広中とも交流があったのでは―と聞くと、「その通り」。家には広中や原敬の手紙が残るという。交差点の街だけに、人物の往来も華々しい。

二本松街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 霞ケ城=写真=は標高345メートルの白旗ケ峯を中心に築かれた山城で、二本松城の通称。15世紀の室町時代、畠山満泰が築城した。1643(寛永20)年、白河から国替えした丹羽光重が城下町整備とともに改修。戊辰戦争で落城した。城跡は国指定史跡。

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 「ざくざく」=写真=は二本松市を挙げて売り出し中の郷土料理。さいの目に切った根菜やキノコなどを入れたしょうゆ仕立ての汁物で、冠婚葬祭や祭りなどに各家庭で作られる。同市竹田の国田屋醸造蔵カフェ千の花(電話0243・24・7018)などで提供している。

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 二本松市の老舗菓子店は新製品開発に余念がない。菓子処まつもと(電話0243・22・0935)の5代目松本和三さん(72)の自慢は「くろべえ」=写真。「冷めてもおいしく」と表面を黒く炭などで固めた天ぷらまんじゅうは意外な味わいに驚く。

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