【 須賀川・赤トリヰ 】 『夢の跡』また集う場に 笑顔あふれるよう

 
奥州街道から変遷した旧国道4号が南北に通り、商業が栄えた須賀川市。中央の赤トリヰがあった場所には市民交流センターの建設が進む

 須賀川にはかつてデパートがあった。「広い地球の 真ん中の ショッピングは楽しい 赤トリヰ(い)」。テレビCMもばんばん流れていた。

 須賀川は江戸時代、宿場町、商人の町として栄えた。芭蕉が奥の細道の旅で長とう留し「風流の初(はじめ)やおくの田植歌」などの句を残したことでも知られる。奥州街道沿いに街が発展し、現在の県中地方の中枢都市だったが、明治以降、その座はすっかり北隣の郡山に奪われた。「鉄道の開通を敬遠していたら、郡山に県中の中枢都市の座を奪われた」。真偽は定かではないが、街の古老から「郡山には負けていない」と気概ある言葉が今でも聞こえてくる。

 ◆何でもそろう

 1976(昭和51)年。須賀川市中町に地上5階、地下1階のデパート赤トリヰが誕生した。当時合併前の市の人口は約6万人。2階建てがほとんどの商店街のど真ん中に建てられたビルは、赤い鳥居をモチーフにした看板がビルの上について5階建て以上の大きさに見えた。

 前年の75年には、西武、丸井、ダイエーがそれぞれ郡山店をオープンさせ、老舗のうすい百貨店、郡山丸光と激しい売り上げ争いを展開していた頃だった。

 「ストップ・ザ郡山が旗印だった」。赤トリヰの社長を務めた吉田昌弘さん(79)は懐かしそうに当時を思い返す。

 売り場面積が広く、利用客がまばらに見えることから、当時は「倒産しそうだ」とのうわさも出たが、吉田さんらは須賀川が培った商人気質で店を市民に欠かせないものにしていった。「何でもそろうのが赤トリヰ」との考えが従業員にも浸透し、近くの病院で緊急手術があった際には若い女性職員らが血液を提供したこともあった。

 赤トリヰの向かいで靴屋「靴のササキ」を営む佐々木栄子さん(71)は「赤トリヰさんからの帰りのお客さんが、よく店を利用してくれていた」と語る。赤トリヰが郡山に流出しそうな買い物客を地元につなぎ留めていた。

 ◆願いを込めて

 それでも車の所有率が上昇し、郊外に大型店の出店が増えると客足は遠のいた。赤トリヰも負けじと郊外にも店を出すなど奮闘したが経営は悪化。2000年に中町の店舗を閉じた。04年には地上2階までを使って営業を再開したが客足は戻らず、翌年には再度閉店した。現在、赤トリヰのあった場所には、図書館などの機能を持つ市民交流センター「tette(てって)」の建設が進んでいる。名称には「みんなが手と手をつないで笑顔あふれるように」との市民の思いが込められている。

 「郡山に負けない街を」と熱気をたぎらせた人々の「夢の跡」で、市民の新たな夢がまた始まろうとしている。

須賀川・赤トリヰ

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【愛され続ける「くまたぱん」】須賀川市の中心市街地の「松明(たいまつ)通り」近くにある「くまたぱん本舗」は、長らく市民に愛される甘いお菓子を作っている。名物は「くまたぱん」(一つ90円)。あんこなどを小判型にして焼き上げ、砂糖をまぶしたお菓子。戦後、砂糖製品が販売できるようになってから売り始めた。

須賀川・赤トリヰ

〔写真〕甘いお菓子が人気の「くまたぱん本舗」