【証言あの時】元福島市長・瀬戸孝則氏 みんな原発事故被害者

 
瀬戸孝則元福島市長

 「自主避難した人に補償してください。自主避難した人だけではなく、残った人にも。避難したくてもできないという家庭や子どもがたくさんいる。私は区別はできない」。2011(平成23)年10月20日、福島市長の瀬戸孝則は、文部科学省で開かれた原子力損害賠償紛争審査会の席上、自らの考えを切々と訴えた。

 県庁所在地の福島市は東京電力福島第1原発から約60キロの距離。3月11日の東日本大震災で土砂崩れや水道の寸断が確認されたことから、瀬戸は避難所の開設を指示した。間もなく原発事故の悪化で浜通りの被災者が福島市に難を逃れてきた。体育館などの公共施設がみるみるうちに埋まった。瀬戸は「事故は福島市に関係ないと思っていた。避難の受け入れに全力だった」と振り返る。

 しかし、15日、風に乗って原発から放出された放射性物質が福島市に到達し、毎時24.24マイクロシーベルトの最高値を観測した。市民に不安が広がる中、瀬戸は引き続き浜通りから避難してきた人の支援に取り組んだ。だが、避難受け入れはこれで終わらなかった。

 4月になると、高い放射線量が確認された飯舘村や川俣町山木屋地区などが「計画的避難区域」に指定された。飯舘村長の菅野典雄、川俣町長の古川道郎は瀬戸に避難の受け入れを要請。瀬戸は全てを受け止め、仮設住宅の用地選びなどを積極的に支援した。

 ただ、瀬戸の足元でも避難が始まっていた。福島市に到達した放射性物質は雨などで地面に沈着し、放射線量はなかなか下がらなかった。放射線に対するさまざまな情報が飛び交い、子どものいる世帯を中心に「自主避難」が相次いだ。残る住民も不安を感じながら、除染に線量低減を託す日々を送ることになった。

 みんな原発事故の被害者ではないか―。その思いが賠償紛争審査会での発言につながった。瀬戸の訴えが伝わったのか、審査会は12月6日、自主避難したかしないかを問わず、県北、県中地域などの住民に賠償を認める指針を決定する。

 被害者の立場を代弁した形の瀬戸だったが「市長は逃げた」という根拠のないうわさに苦しめられることになる。市議会で「流言飛語で事実無根」と答弁するなど否定したものの、インターネットなどを通じてうわさは広まっていった。

 震災から間もなく丸10年となる。いまだに市民から「逃げた市長」と指をさされることがあるという。瀬戸は「言っている人を恨むこともやめました。震災の不安な時期、非難の矛先が向かうのは私しかなかったのだろう。言っている人も被害者。恨むべきなのは政府と東電。そう思えるようになりました」と心の内を明かした。(敬称略)

 福島市 東日本大震災で震度6弱を観測し、住宅約1万件超、公共施設約300件などに被害が発生した。伏拝地内の土砂崩れでは国道4号が通行止めとなり、約80世帯に避難指示が出た。断水も市民生活に大きな影響を及ぼした。東京電力福島第1原発事故の影響で空間放射線量が上昇した。浜通りの避難者を最大約1万2千人受け入れた一方、市民の自主避難者は最大約7500人に上った。

【瀬戸孝則元福島市長インタビュー】

 福島市長だった瀬戸孝則氏(73)に、東日本大震災や東京電力福島第1原発事故への初期対応などについて聞いた。

理屈言ってる理由はないし。福島市の役割はそういうもの

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時はどこにいたのか。
 「市役所で開会中の市議会に出席していた。市役所は、免震構造の新庁舎に建て替えたばかりだった。それで揺れはあまり感じなかったのだが、地鳴りがすごかった。これは大きな地震だと思った」

 ―その後、震災対応に入ったのか。
 「そうだ。災害対策本部を設置し、避難所を開設するように指示した。小学校や集会所など70カ所近くつくったのではないか。そこに職員を配置した。最初は(住宅被害を受けた)福島市民が避難してきた」

 「浄水場に近い送水管が損傷してしまったため全市で断水になった。なかなか修理の部品がそろわず苦労した。人工透析で水が必要な病院には、給水車を手配して対応した」

 ―市の記録などによると、12日には浜通りからの被災者を受け入れている。
 「当時は避難して来た人を本当に張り切って受け入れていた。原発事故の情報などは入ってきていなかったので、福島市は関係ないと思っていた。津波で被害を受けた人を受け入れ、その後、原発事故による避難者が増えていった。来た人は全て受け入れた」

 ―原発事故で放出された放射性物質が15日、福島市に到達し、午後6時40分に最高値の毎時24.24マイクロシーベルトを観測。当時の状況はどうだったのか。
 「政府からの指示などは何もない。当然、線量の急上昇なども想定していなかった。しかし、県議時代に原発について調べていたので、まだ大丈夫という風に個人的には理解していた」

 ―屋内退避などは考えなかったのか。
 「思わなかった。ただ、庁舎の線量を測った時、部屋の真ん中から窓際に(線量計を)持っていくと線量が上がったが、戻ると下がった。放射線ってこういうことかと思った。原発の状況が悪化し、市民が全部避難しなければならないような事態になれば、われわれは市役所に籠城だと考えた。幸いそうならなかったが、そこまでは考えた」

 「市内では国道4号のあさひ台団地で大規模な土砂崩れがあった。(市内の被害の中で)最初に復旧を手配したが、国の(出先機関の)関係者がいなくなった。後に原発事故が理由と聞いた。全くわれわれの知らないうちのことだった」

 ―浜通りの避難者だけではなく、4月に計画的避難区域に指定された飯舘村や川俣町山木屋からの避難を受け入れた。
 「当たり前だよね。そんなことはね」

 ―飯舘村長だった菅野典雄氏と川俣町長だった古川道郎氏は、瀬戸氏に避難関係でお願いしたことは、ほとんど即座に受け入れてもらったと証言している。
 「あの時はそうでしょう。そんな(いろいろと)理屈を言っている理由はないし。福島市の役割はそういうものと思っていた」

特定避難指定、最も怖い分断が起きる

 ―一方で、福島市から自主避難が相次いだ。
 「残念だった。でも残念と言ってもしょうがないんだ。放射線に対する価値観というか、考え方というのは個人個人違うから。(放射線量が)どこから安全なんだということについて、答えがないんだから。俺が放射能災害で一番困ったのはそこだ。市民ではなおさらだったろう」

 「テレビではさまざまな情報が流れていて、あの時はそれぞれ判断するしかなかったのではないか。6000人か7000人は(自主的に県外などに)避難した。(市長としては)『福島市は一生懸命、安全性でも頑張ってますよ』と言うしかない。11年の秋以降になってからは(福島市からの自主避難者が多かった)山形県の米沢市や山形市で説明会を開いた」

 ―どのような説明会か。
 「私が行って、福島市の現状を説明してきた。『帰ってきてほしい』と言うことを話した」

 ―反応はどうだったか。
 「50人ぐらいの集まりだったと思うが、反応はあまりなかった。質問はちょっと出たと思う」

 ―県外に避難していても福島市民だと考えて説明に行ったのか。
 「そうそう。私は(11年の)10月20日に(文部科学省の原子力)損害賠償紛争審査会にも(自主避難を巡る賠償について意見を述べる説明者の一人として)行ったんです。会場は東京の文部科学省だったと思う。議事録が残っていると思うが、私はとうとうと福島市の実情をしゃべった」

 ―自主避難者にも賠償するべきだと言ったのか。
 「違う。(賠償は福島市民を対象に)全部しろって言ったの。俺の主張は、逃げた人も、逃げたくても逃げられなかった人も、逃げなかった人も全部(賠償するべきだと言った)。差別をするなと訴えた。被災者って逃げた人だけじゃありませんよって」

 「そこに(県内から)自主避難している人が傍聴に来ていた。その人が脇でちらっと、『瀬戸市長は悪者ではなかった』と言うのが聞こえた。避難した人にとっては、原発に対応する首長の評価は低かったんですよ。(自分の審査会での発言について)『なんだ、こういうふうに思われたのか』と思った。実際に思っていたことを言っただけだ。その後ね、(賠償の)金額が決まってきたよね」

 ―県北、県中地区などを対象とした(避難の有無を問わない)賠償のことか。
 「そうだった。俺が言ったようなことも酌んでくれたんでないか、と考えていいんだろうと思う」

 ―福島市の東部に位置する渡利地区や大波地区では原発事故後の線量が比較的高かったため、政府が「特定避難勧奨地点」とすることを一時検討したが。
 「結論から言うと、断りました。国が指定しようとした地点はね、一部なんですよ。全部じゃなくて。渡利は山際の方。これをやったらどうなるかというと、原子力災害で最も怖い分断が起きる」

 ―政府は渡利地区や大波地区などの多くの世帯の線量を測り、最終的に指定基準を超えた地点は渡利東土入と小倉寺稲荷山の2地点だったとしている。2地点の指定を断ったことを言っているのか。
 「その時、(特定避難勧奨地点を指定する)政策そのものが、分断を生むという判断をして『駄目だ』ということをしました」

 「(指定により賠償が発生し)住民の間で『あいつは(賠償を)もらった』とか必ずなる。私から言わせれば、放射線がどこから安全かという答えがないのに、玄関前から数値を測ったりするなどの規則通りのやり方でやっても通じない。現地を知らない人のやり方と思っていた」

 「福島市民が全部、放射線の値はともかく、不安(な状況)に置かれたんだから、少なくとも市民に全部補償出せという思いの方が強かったですから」

 ―指定候補の地点が2カ所に絞り込まれる前、市長に対し指定についての確認や打診はあったのか。
 「正式に(2カ所の候補が)来てからだね。われわれ(市側)が受け止めてんのは」

 ―伊達市や南相馬市では測定の方法などを政府と市が話し合って決めている。
 「そうそう」

 ―それは決めたのか。
 「『やり方についてはこういう測り方をします』と示されたことは覚えてんね」

 ―渡利地区などの住民の反応は。
 「なかったな。俺の耳には入ってこなかった。声はあったでしょうね、指定しろみたいな。(しかし、地区が)全体的にそういう声に(は)なんねよね」

 「特定避難はそんな形で(決着した)。指定を受けなかったことは、今では良かったと思っている」

「逃げた」うわさ、恨むのは東電と国なんだ

 ―「(瀬戸)市長は原発事故で逃げた」といううわさが流れた。
 「逃げたなんてことは、あるわけないんだ。今でも言われる。食堂で食事をして帰った後に、店の主人に『あれ逃げたべ』と聞いてくる人がいる。トラウマになってますよ」

 「うわさはすごい勢いで広がった。本当のことを説明しようとしても、どうにもならなかった。あのころの社会現象だと思う。原子力災害で全員が被害者という中で、責任者は国だと言っても通じないから、住民の矛先は首長に向かう。都市部は住民と首長の距離が普段は近くないから、今で言うところのフェイクニュースも(信じられてしまい)さーっと広がったのだろう」

 ―今はどう思うか。
 「うわさを言っていた人を責められない。その人たちも被害者だ。災害時に心がすさむのだって、市民のせいではない。原発のせいだ。だから恨むのは東京電力と国なんだ。本質的に悪い。そこまで冷静に考えられるようになったのが(この)10年だったな」

―間もなく震災から丸10年。震災を経験した首長として提言したいことは。
 「原子力災害は、被害がここまでになると線を引けないものだ。今後、原発事故が起こったときもそうなるだろう。国は、そういうことを前提に防災対策を広範囲に立てなければならない」