鎮兵「陸奥国司」木簡...「出羽国」説変更 文字数19→20と判明

 

 福島市平石地区の西久保遺跡から出土した兵士を指す「鎮兵(ちんぺい)木簡」を巡り、市は29日、出羽国ではなく陸奥国司の書状であることが分かったと発表した。国立文化財機構奈良文化財研究所の協力を得て赤外線画像を撮影して分析した結果、当初は出羽国と考えられていた文字が陸奥国司だと判明した。

 市によると、鎮兵は「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載がある。蝦夷(えみし)討伐を目的に派遣された朝廷側の兵士だが、詳しい実態は不明で木簡の解読が有力な情報となっている。

 市の分析では、下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)を国司と鎮兵が出発し、遺跡周辺で鎮兵が死亡。その際、下野国司が陸奥国司に鎮兵死亡の書状を作成して使者を派遣した後、遺跡周辺にとどまっていた鎮兵らに対して送られた返答文が今回の木簡に当たるという。

 鎮兵制では、鎮兵の死亡は陸奥国府(宮城県多賀城市、鎮守府)の管轄と判断されており、史実との整合性が合うという。木簡では、鎮兵の死亡が多いことについて、遺跡周辺の地域の対応に落ち度がない旨を伝えたと考えられる。

 今回の解析では新たに5文字が分かり、昨年11月に発表した計19文字ではなく計20文字と判明。「陸奥国司牒下野国司 鎮兵死□衆之状不罪□□」で、最後の2文字をこれまでの解析を踏まえて郡郷と仮定した場合、(陸奥国司(むつこくし)、下野国司(しもつけのこくし)に牒(ちょう)す。鎮兵死(ちんぺいのし)□衆(おおき)の状(じょう)、郡郷(ぐんごう)を罪(つみ)せず)と読めるという。文字の判読はできないが、裏面にも墨書きがあることが分かった。

 木簡は鎮兵制度が導入された奈良時代初め(724年以降)から関東諸国の鎮兵派遣が終了した平安時代初め(806年)までの年代と推定される。

 6日から木簡展示

 市は4月6日~5月26日、同市のじょーもぴあ宮畑に鎮兵木簡の実物を展示する。午前9時~午後5時(最終入場は同4時半)。観覧無料。4月20日には「西久保遺跡と周辺の遺跡」に関する講座、5月18日には「陸奥国の拡大と信夫郡」に関する講演会を開く。ともに午後1時半開演。定員80人で参加無料。問い合わせはじょーもぴあ宮畑(電話024・573・0015)へ。