【証言あの時】前川俣町長・古川道郎氏 事故調委員、なぜ自分

 
古川道郎前川俣町長

 「何で自分なのか」。川俣町長だった古川道郎は当時、官房副長官を務めていた福山哲郎からの依頼に耳を疑った。福山は、東京電力福島第1原発事故を検証する政府の事故調査・検証委員会の委員になるよう打診してきた。

 古川は「事故で全町避難した浜通りの首長が適任ではないか」と固辞した。だが、福山は譲らなかった。「避難を受け入れ、自らも避難を経験した町長にぜひお願いしたいのです」と、古川を説得。政府は2011(平成23)年5月末、10人の委員を発表した。

 川俣町は第1原発の北西に位置し、原発の恩恵から縁遠い自治体だった。11年3月の原発事故当初、双葉町などからの避難を町を挙げて受け入れた。しかし、4月に町内の山木屋地区が、被ばく線量が年間20ミリシーベルトを超える可能性がある計画的避難区域となり、町民の避難を余儀なくされた。

 古川はこれまで口外してこなかったが、原発の状況がさらに悪化した場合に備え、山木屋地区からの避難を指揮する傍ら、川俣全町の避難計画を練っていた。それらの苦い体験が頭をよぎり、古川は決断する。「被災自治体の代表として事故調の委員になろう」

 委員長に「失敗学」で知られる東大名誉教授の畑村洋太郎が就任し、委員には科学技術史を専門とする九州大教授の吉岡斉(18年に死去)や作家の柳田邦男らそうそうたるメンバーがそろった。事務局も検察官らが脇を固めた。古川は臆することなく、6月の初会合から地元目線で「被災地の首長の話を聞いてほしい」などと訴え続けた。

 やがて、古川の思いが委員らを動かす。委員長の畑村は、11月の会見で「この事故の本質はどうして起こったかというよりも、たくさんの人がほとんど理不尽にそれまでやってきたものを突然止められ、そこの場所から追い出されてしまってもう帰ることができない状態にいる。こっちの方がはるかに重きを置いて考えないといけないことだなと感じました」という言葉を残している。

 政府事故調は、関係者への聞き取りや現地視察などを重ね、12年7月に最終報告を首相だった野田佳彦に提出する。その中には、事故調の発足当初に書き込まれる予定ではなかったかもしれない、被災地の苦悩などの記述がしっかりと盛り込まれていた。古川は「委員や事務局は真剣に議論してくれた。自分が参加した意味があったと思う」と振り返る。

 古川はその後、体調を崩し入院するが、病身を押して山木屋地区の再生に尽力する。避難指示解除のめどが立ったことを見届けた17年2月、4期14年務めた町長職を辞した。(敬称略)

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 川俣町 町の南東に位置する山木屋地区が2011年4月22日に計画的避難区域に指定された。区域再編を経て17年3月31日に解除された。山木屋地区の震災時の住民登録は1252人。1日現在の避難者を含めた住民登録は728人で、居住者は344人。
 
 政府事故調査・検証委員会 政府が2011年6月に設置した第三者機関。「失敗学」で知られる畑村洋太郎東大名誉教授を委員長に、研究者や法曹関係者ら計10人で構成。検察庁など各省庁からの出向者が事務局を務めた。12年7月に最終報告をまとめた。

 【古川道郎前川俣町長インタビュー】

 前川俣町長の古川道郎氏(76)に、同町山木屋地区の計画的避難の状況や政府の事故調査委員会での取り組みなどについて聞いた。

 ―震災の発生時、どこにいたのか。
 「(2011年)3月11日は県庁で川俣シャモのブランド認証式があった。ちょうど町長室に戻ったころに揺れが始まった。町内では、町役場や学校の体育館などで建物の被害が確認された」

 ―東京電力福島第1原発で事故が起きたことをどのようにして知ったか。
 「12日にテレビを見て、事故が起きていることを知った。間もなく、当時の双葉町長の井戸川克隆氏から『町民を避難させてもらいたい』と連絡が来た。震災前はあまりお付き合いはなかったのだが、引き受けることにした」

 「震災の被害がなかった学校の体育館などに避難所を設けたが、避難者は7000人になるという。本当にどうしようかと思った。浪江町も避難してきたので、受け入れた」

 ―避難者の受け入れで難しかったことは。
 「食料の確保が大変だった。町内の全ての米屋さんに手配して炊き出しをしたが、すぐにコメがなくなった。農家をやっている役場職員にコメを出してもらい、なんとか間に合わせた。川俣を挙げての受け入れだった」

 ―双葉町は川俣町から埼玉県に再避難したが。
 「井戸川氏が15日に来て『お世話になったけど、次の所に避難します』と言ってきた。聞けば行き先は埼玉で、大型バスが何台も来るという。川俣町民が何事かと驚いてしまうから『静かにやってもらいたい』とは言った」

 「出発したのは19日だった。井戸川氏が『悪いけど行きます』と言うので、『悪いことなんてない』と返した。大変な苦労と思い、見送った。井戸川氏は(原発事故を)一番心配した人。心も体も痛めたと思う」

 ―川俣町に原発事故の影響があると気付いたのはいつごろだったか。
 「政府から『福山哲郎官房副長官(当時)らが4月10日に町役場に行く』と連絡があったので待っていたが、なかなか来ない。来たのは夜になってからだった。川俣が避難を受け入れたことの聞き取りだと思ったから『政府は何もやらなかった。それぞれの首長が心配していろいろやったんだぞ』と言った」

 「そうしたら『今日は別の話です』と言われ、計画的避難の話をされた。『年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超す所は将来、健康被害が起きるといけないので避難してもらうことになる。川俣の一部がそうなるので来た』と言われた」

 ―計画的避難を伝えられた時、どう思ったか。
 「『原発の立地地域でもない川俣が避難しなければならない被害って何だ』と問いただした。『避難に納得をしたくないし、町民に苦労をかけられない』と言って、いっぱい口説いた」

 「一部というのは山木屋地区のことだったのだが、俺は『みんな測ってくれ』と言った。小綱木地区などを測定してもらったが、避難基準(の年間20ミリシーベルト)に達しなかった。それで11日に計画的避難区域の指定が発表された」
 
 全町避難のバス手配や方角など想定実験した

 ―避難をどのように実施したのか。
 「1カ月で避難しろと言われても、(山木屋地区の)全員を町内に受け入れられない。当時の福島市長の瀬戸孝則氏に、(市内の)学習センターを避難所として貸してもらえるようお願いした。土湯や飯坂の温泉旅館にもお世話になった」

 「そのころ、井戸川氏から連絡が来て『町長、(原発事故は)こんなものでない』と言うんだ。だから、町全体が避難することも考えた。瀬戸氏に『川俣が避難になったら全部頼むぞい』と話したら、瀬戸氏は『そんなこと言ったら福島も避難じゃないか』と言った」

 ―全町避難も考えていたのか。
 「そうだ。原発事故の悪化に備えた。町の幹部職員とバスの手配や避難する方角などのシミュレーションをした。県に相談したら「その時は吾妻山を越えて(会津や新潟に)行くしかない」と言われたこともあった。全町避難をしなくてもよいなと思ったのは、計画的避難が終わったころ。周りには今まで言わなかったけど」

 ―仮設住宅は町内に建設したのか。
 「土地探しから始めたのが、なかなかすぐにはできなかった。全国で初めてだったと思うが、仮設内で買い物ができるようコンビニをつくった。国から来た派遣職員が知恵を出してくれた」

 ―13年に山木屋地区が居住制限区域と避難指示解除準備区域に再編される。どのような議論があったのか。
 「『乙8』という区域の放射線量が高かった。(乙8を)帰還困難区域にしてほしいという要望もあったが、最終的に『自分たちの線量が高いことを分かってほしい』となり、乙8が居住制限区域、他が避難指示解除準備区域となった」

 「ただ環境省が、区域再編をきちんとできないと、除染も全部できないようなことを言ってきた。その時は『除染もやんねえで区域再編もねえべ』って言ってやった。結局、山木屋は農地も含めて全部除染した」

 ―除染での課題などはあったか。
 「仮置き場の確保が大変だった。黒い大型土のう袋を置かれるのは嫌というのを納得してもらった。不安を解消するため、仮置き場の廃棄物の周りに砂を詰めた袋を置いてもらった」

 「農地除染は、民主党政権下で農相だった鹿野道彦氏が受けてくれた。山形出身で『福島は隣組だから、隣組のことはしっかりやらないと』と動いてくれた」

 ―解除の時期についてどのような議論があったか。
 「除染は進んだが、解除時期はまとまらなかった。そうしているうちに自分は体調を崩し、入院してしまった。すると『地元や議会が16年8月(の方向)でまとまったので、町長から議会で言って』と言われたので、退院して言った」

 「本当は政府の反応などから17年3月末ではないかと思っていた。住民の気持ちが揺れ動いたこともあり、結局は8月の案を取り下げて、17年3月末の解除ということになった」

 ―解除にこぎ着けた時、どう思ったか。
 「ようやく解除かと思ったが、山木屋の人の帰還に結び付くかは不安だった。あのころは何か解決しても、すぐにまた次の新しい課題が出てきた。『これで終わった』というのはないんですよ。それが住民に寄り添うということだった」

 事故調では「自分が思っていることを言おう」

 ―政府事故調のメンバーになったが。
 「本当はやりたくなかったんだ。『俺ではなくて、当時いろいろ発言していた(それぞれ当時の)南相馬市長の桜井勝延氏や飯舘村長の菅野典雄氏、(全町避難した)富岡や大熊の町長になってもらって』と言ったんだけど」

 ―誰と話したのか。
 「官房副長官だった福山氏。彼から連絡があった。断っても『古川さんは避難と避難受け入れの両方を体験しているんだから、そういう立ち場で出てください』と返してきた。そのうち『もう決まりましたので発表します』と言う。新聞にも載るし、断れなくなった」

 ―どのように思ったか。
 「いざ会議に行ってどうするかと思ったけど、言いたいことは原発(事故原因の)問題ではなくて行政(が直面した問題)の方だから。だから、俺は被災市町村の代表だということで自分が思っていることを言おうと考えた」

 「委員にも事務方にも検察畑の人が多くて『これは俺、畑違いだな』って思ったが、会議に出れば何か言わなければと思い、必ずしゃべった。特にオフサイト(原発敷地外の避難指示が出た区域)の報告は必ず入れてくれと言った」

 「そうしたら畑村洋太郎委員長(当時)らメンバーは『古川さんの言うことは大事だから聞こう』と言ってくれた。最終的に報告書には一部入っていると思う。それは実現できた。俺なりのことはあったと思う。みんな熱心に議論してくれた」

 ―事故調内の雰囲気はどうだったか。
 「現地の視察にたくさん行った。被災自治体からの聞き取りは、本当に大事にしてくれた。当時は国会事故調もできていたから、良い報告にしようと委員たちはピリピリしていた」

 「県に対しても聞き取りをしたが、当時の担当部長がはっきりと物事を言わないんだ。もっときちんと県として言ったらいいだろうと。こっちが本当にやきもきした。委員の先生方は福島県のことを聞きたかったんだよ」

 ―被災自治体の首長として事故調に参加して、どのようなことを考えたか。
 「原発を誘致した時はどのような状況だったのかなと考えた。福島県にとって、恩恵もある大きな仕事だったはずだ。産業振興のために電気は欠かせない。そのエネルギー源が来たんだから。ところが、原発事故のことまでは分からなかったのだろうな」

 ―震災から間もなく10年。復興をどう見るか。
 「やっぱり(避難指示が出た区域に)戻る人がはかばかしくないのが気に掛かるね。でもこの事故はそういうものだと思う。不安に思ってしまうと、科学的なことを言われても専門家でもない限り、なかなか分からないものだ」

 「あと、政府には『何でも首長の責任にしては駄目だぞ』と言いたい。政府がちゃんと責任を持ってやってもらわないと困ってしまうんだ。俺ら首長は。任せられてしまうだけでは」