【証言あの時】前郡山市長・原正夫氏 計画停電、怒りに身震わせ

 
原正夫前郡山市長

 「やれるものなら、やってみろと言え」。2011(平成23)年3月14日、開成山球場に置かれていた郡山市の災害対策本部に、当時の市長、原正夫の声が響いた。普段は温厚な原が怒りに身を震わせた理由は、東北電力からの「郡山市に計画停電の説明をしたい」という申し入れだった。

 郡山市は、東日本大震災で多くの建物が倒壊する被害が出たため、市民は公共施設に身を寄せていた。東京電力福島第1原発事故の避難者受け入れも始めていた。すぐに「この寒い中、避難所が停電となれば生死にかかわる。人道上許されない」と原は考えた。申し出は職員を通じたもので、原は東北電力側がどのような意向なのか分からなかった。しかし、政治家の勘で「説明を受けたら停電を了解したと誤解される恐れがある」と感じた。強い意志で拒否したからか、再度の説明会の申し入れはなかった。その後も本県での震災時の計画停電は行われることはなかった。

 原は「私が対策本部で大きな声を出したのは3回。計画停電はその1回だ」と振り返る。2回目の原の怒りの伏線は、14日深夜から始まっていた。

 県外から来ていた自衛隊の代表者が会議を欠席した。独自に線量計を持ち「(郡山は)健康に影響が出る放射線量ではありません」と言って活動する隊員の姿は安心感につながっていた。その彼らが来ない。支援活動も止まった。原は「首に縄を付けてでも来てもらえ」と、職員に語気強く指示した。

 次の会議、自衛隊はガスマスクを身に着けた完全防備の姿で現れた。県外の本部から「(原発から)100キロ圏内は、屋内退避と完全防備をして指示を待て」と命令が出ていたのだ。

 原は驚きながらも静かに語り掛けた。「市民が雨の中、水を求め並んでいることをあなた方は知っているはずだ。われわれに防備する手段などないし、あなた方はそのような線量ではないと言っていたでしょう。命令と実態が違うと市長が言っていると(上官に)伝えてくれ」。思いが通じたのか、自衛隊は完全防備を解き活動を再開した。

 あと1回は、日本水道協会の手配した給水車が「放射能が怖いのでこれ以上は無理だ」と、白河市でストップしたことに向けられた。原の猛抗議で郡山までは来たが、より原発に近いいわき市には行こうとしない。

 原は代わりに郡山の給水車を派遣した。この行動が、各種団体の間で「いわき市に物資を送っても大丈夫」という先例として伝わり、いわきへの物流が動きだす契機になったという。

 原は「市民のためになるかどうかを考え、一つ一つのことを責任を持って決断する毎日でした」と、震災当初の混乱期を思い返した。(敬称略)

 【原正夫前郡山市長インタビュー】

 郡山市長だった原正夫氏(77)に、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の初期対応や県内自治体に先駆けて着手した校庭の除染の取り組みなどについて聞いた。

 寒い中、電気止まり公共施設で暖房なくなったら大変なことになる

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時、どこにいたのか。
 「郡山市民文化センターで行われていた『あさかの学園』(高齢者大学)の卒業式に出ていた。(地震の)揺れが収まってから市役所に向かったが、被害が大きくて入れなかった。そのため、改修が終わったばかりの開成山球場(ヨーク開成山スタジアム)に災害対策本部を設置した。市内は地震による建物の倒壊などが多かった」

 ―12日に第1原発1号機が水素爆発する。原氏の著書「不忘録」によれば、この日のうちにヨウ素剤配布の議論をしているが。
 「原子力災害の防災計画などはなかったが、市職員の情報収集力が高かったことに加え、郡山市医師会から助言を得たことで早い段階から議論していた」
 「この日、当時の三春町長の鈴木義孝氏から『県と連絡が取れない。(原発事故による浜通りからの避難者で)避難所がパンク状態だ。郡山で引き受けてくれないか』と連絡があった。当時の田村市長の冨塚宥氏(18年に死去)からも同じような要請があり、市内の公共施設で引き受けた」

 ―ガソリンなどの物資はどうだったのか。
 「なかったですね。郡山までタンクローリーが来たが、運転手が『これ以上は運びたくない』と言って車の鍵を付けたまま帰ってしまい、卸団地に車両が放置されたこともあった」

 ―地元の首長としてどのように思ったか。
 「放射線量(の考え方)にはさまざまな情報があった。当時、郡山に来ていた自衛隊は独自に線量計を持っていたので、災害対策本部会議で『健康に影響を及ぼすような線量ではありません』と報告してもらった」

 ―14日に東北電力から計画停電について説明したいとの申し出があったというが、どうしたのか。
 「職員を通じて『市に計画停電の説明会をやらせてください』という話がきたので『やれるもんなら、やってみろ』と言って断った。説明を受けたら市が『了承した』と受け取られる可能性があるからね」

 ―申し出を断った理由は。
 「寒い中、公共施設で被災者を受け入れていた。電気が止まり、暖房がなくなったら、大変なことになると思った。あの時は一時的に断水もしていたので、人工透析の患者(の診療)にも影響が出る命の問題だと考えた」
 「そもそも(被災した状況で)計画停電を考えさせること自体がおかしい。許されないと思った」
 「私はね、災害対策本部で大きな声を出したのは3回あるんですよ。これが1回ね。あと1回は自衛隊。当時は県外の自衛隊が給水などをしてくれていた。ところが、14日深夜の会議に、これまで必ず会議に出ていた自衛隊の代表者が来ない。だから『首に縄を付けてでも引っ張ってこい』と職員に指示した」

 ―どのような状況だった。
 「聞けば、彼らには、県外の本隊から屋内退避するようにと命令が出ていた。職員に呼ばれたので次の会議には出てくれたのだが、ヘルメットや防毒マスクを身に着けた完全防備の姿だった。みんなびっくりしてしまった」
 「その時はもう、私は大きな声を出さなかった。自衛隊に『私たちにそのような装備はない。分かっていると思うが、今だって傘を差しながら市民が並んで水をもらうために待っているんですよ』『そのような中で、あなた方が完全防備して屋内退避するのは郡山市の実態とは異なる。市長がそう言っていると伝えてくれ』と訴えた。彼らは次の会議から、通常に戻った」

 ―あと1回は何だった。
 「給水車の件だ。日本水道協会が給水車を送ってきたが、放射線量が高く危険だからといって白河市でストップした。当時、郡山市長が県の水道協会の会長だったので『それならば福島県は脱退する』と伝えさせた。すぐに(白河から)入ってきました」
 「ただ、それでも(原発に近い)いわき市には行かなかった。だから、郡山から給水車を向かわせた。このことが東京など(の関係機関)に伝わり『いわきは(物資などを送っても)大丈夫だ』という認識になったと聞いている」

 ぎりぎり80キロ圏外、そこしかないと思った 

 ―原発事故の悪化に備えて、子どもたちを市西部の湖南地区に避難させる計画があったというが、いつごろ計画したのか。
 「1号機や3号機が再爆発するかもしれないという報道があったころだ。子どもたちの健康を考えたら、避難させなければならないと思った。計画したのは16日か17日だったと思う。副市長や教育長ら市の特別職だけに『検討を始めてくれ』と言った。部局長たちには話していない」
 「当時は『各市町村に頼んで(子どもたちを各学校に)2人ずつか、3人ずつか引き受けてもらえば』という意見もあった。しかし、緊急時にはそのような余裕はない。湖南地区は(奥羽山脈の)山陰で放射線量が低く、ぎりぎり原発から80キロ圏外だ。市内で避難するならそこしかないと思った。幸いというか、学校の統廃合により学校などの公共施設は空いていた」

 ―避難対象はどのくらいの範囲を考えていたのか。
 「幼稚園児から小学3年生か4年生ぐらいまで。それで、建設部長に『人が寝泊まりできるようにしてくれ』と言って改修させた。目的は言わなかった。市外からの避難者向けと思っただろう。警察や自衛隊などには計画を打ち明け、協力を求めた」

 ―結果的に実施されなかったが、避難しなくてもよいと考えたのはいつごろか。
 「政府と東電は当初、原発事故の収束に真水を使っていた。『これはもう一度原発を使う気だな』と思った。しばらくして海水を使うようになり、ようやく原発事故が収まってきた。そのころだったと思う」
 「(子どもたちの)避難計画は、表に出せば蜂の巣をつついたような騒ぎになると考えた。大人については、避難するかしないかも含め自分で何とか判断できると思い、避難計画を作らなかった」

 学校の表土除去、全て手探りの状況だった

 ―郡山は県内でいち早く校庭の除染に取り組んだ。どのようにして決断したのか。
 「除染という手法を知ったのは早かった。子どもは学校にいる時間が長く、校庭は風が吹くと砂が舞う。内部被ばくを避けるため原因となる表土を取り除こうと考えた。放射線の考え方では本流の人ではないが、中部大教授の武田邦彦氏のブログも参考にしていた」

 ―表土除去の方針を打ち出した時、政府からはどのような反応があったのか。
 「政府からは『学校校庭の表土除去はやらなくていい。やるほどの線量ではないから補助金は出さない』とはっきり言われた。だが市民にとって必要なことだと考えて実行した」

 ―最初の表土除去を4月27日に行った。どのような状況だったのか。
 「薫小などから始め、2センチぐらい表土を剥ぐと、9割ほど放射線量が低減することが分かった。全ては手探りの状況だった」

 ―当時は除染の特措法が成立する前だった。除染した土をどうしたのか。
 「最初は政府から(敷地外に)持ち出すなという指導があったので、校庭の一角に野積みしていた。その後は敷地内保管という名目で(校庭に)埋めろということになった。政府と東電には『東電が引き取るのが筋ではないか』と要望したが、なしのつぶてだった」

 ―後に政府は校庭の除染などを認めていくが。
 「民主党政権時に『補助を出す方向性になった』という連絡がきた。関連法が成立する前の事業には補助金を付けないのが慣例だったが、郡山はさかのぼって対象になった。災害時の補助金運用の転機になったと思う」

 ―災害対応の中で印象深い政治家はいたか。
 「原発事故後に県内を巡っていた、当時の経済産業副大臣の松下忠洋氏(12年に死去)と、後に復興相を務めた平野達男氏だ。松下氏と初めて会った時、彼は疲れていて話の最中に寝てしまった。私は起きるまで待ち、『健康に留意して郡山と福島(県)のため力を貸してください』と言った。気に入ってくれたのか、それ以降は平野氏と共にさまざまなことを相談する仲になった」
 「一番大きかったのは市庁舎の改修だ。当時、市庁舎などの公用施設は、震災で壊れても国の補助対象ではなかった。2人にお願いして対象になった。郡山市だけではなく、他の市町村の役場改修にも役立つ決断だったと思う」

 ―その後、「原市長は原発事故後に逃げた」といううわさが出回ったが。
 「震災で自宅が壊れてしまった関係で、2カ月ほど市内の娘の家から(災害対策本部などに)通っていたことはあったが、逃げたという事実はない。否定するのもばからしいと思い、積極的に否定しなかった。うわさは広まり、信じる人は多かった」

 ―間もなく震災から丸10年。現状をどう思うか。
 「物質的な復興は進んでいると思うが、原発事故による風評は10年たってもなかなか解けない。払拭(ふっしょく)するまで時間がかかると思うが、地道に努力を重ねていくしかない」