【証言あの時】元復興庁事務次官・岡本全勝氏(下) 与党が提言

 

 「与党から復興政策の提言が出ます。内容には僕らも関与しています」。2013(平成25)年3月、復興庁統括官の岡本全勝は、官邸で首相の安倍晋三と向き合っていた。安倍は「何と言えばいいのか」と岡本に助言を求めた。「この通りやると言って、復興大臣におろしてもらえれば良いと思います」。安倍は岡本の進言を了承した。与党提言から復興政策が動いていくという、今に続く枠組みが生まれた瞬間だった。

 3月6日、自民党東日本大震災復興加速化本部長の大島理森と、公明党の同本部長の井上義久が官邸を訪れ、提言書を安倍と復興相の根本匠(衆院福島2区)に渡した。安倍は「提言をしっかり受け止めたい。根本大臣の下で復興を加速化することが使命。結果を出すことで応えたい」と述べた。シナリオや席次は、官房長官の菅義偉の了解を得て全て岡本が決めた。

 12年12月に政権奪還した自民党は、国会対策の経験が長く老練で調整能力に長(た)けた大島を東日本大震災復興加速化本部長に据えた。大島は、被災地の意見も聞きながら、復興政策の見直しを進めた。その作業に岡本が加えられていた。まとまった提言には、財務省が反対するような対策も盛り込まれており、霞が関に激震が走った。

 岡本は、提言を出す考えを大島から聞いた時、「これはええわ」と与党の行動力を政策実行の推進力にしようと考えた。経緯を知る岡本だったが、提言が出た後は「俺たちも『ヒエー』と言って『言われたからしゃあないやな』と(政策の推進に向けて)関係者を説得した」と、当時を振り返る。与党の提言は現在まで9回を数える。

 首相の安倍の被災地視察についても、岡本がひな型を作った。当初は年に4回以上、後に年4回で、本県が2回、岩手県と宮城県が各1回に定型化した。視察先については「官邸や経済産業省はテープカットなどを入れたがったが、総理の頭の中に、復興の進んでいるところと『まだまだでっせ』というところを整理してもらうように選んだ」と調整の内幕を明かした。

 震災と東京電力福島第1原発事故は、日本をどう変えたのか。岡本は「国土の復旧ではなく暮らしの再建を目指し、これまで関与しなかった産業復興やコミュニティー維持に取り組んだ。戦後の政府方針の『コペルニクス的転回』であり、拡大だった」と指摘する。そして「その構図を俺が立てた。後世に批判してもらわないかんけど、及第点はもらえるかな」と語る。

 しかし一点、疑問があるという。「原発事故の加害者は東電と経済産業省だが、経産省は、福島にしっかり『つぐない』をしているだろうか」(敬称略)

 与党の東日本大震災復興加速化本部提言 2013年3月の第1次提言から始まり、最新の提言は昨年9月の第9次提言。自民党と公明党が提言内容を合意して官邸に提出する。帰還困難区域に「復興拠点」を設けることなど、省庁レベルで決断できない復興政策を進めていく上での原動力になってきた。与党本部の存在は、指導力のある復興相にとっては良き伴走者となる。一方、指導力不足の復興相の在任中には、提言により復興政策の水準を担保するという役割も果たす。

 【岡本全勝元復興庁事務次官インタビュー】

 「復興行政の生き字引」とされる元復興庁事務次官の岡本全勝氏(66)に、復興庁発足から現在に至るまでの取り組みや東日本大震災が日本政府に与えた影響などについて聞いた。

被災地に職員派遣、現場見たらやらざるを得ない

 ―2012(平成24)年2月に復興庁が発足し、平野達男氏が初代復興相、岡本氏は復興庁の統括官に就任した。当時の状況は。
 「平野氏には『3月11日に発足させましょう』と言ったのだが、『一日でも早くやるんだ』と言われた。それで復興庁を設置する法律作りなどを急ぎ、頑張って2月の発足になった」

 ―復興庁の発足によって変わったことは。
 「ないない。もう実態が(被災者生活支援特別対策本部として)先行していたから。現場とのやりとりや課題解決については、それをそのまま走らせれば良かった」

 「ただ、これまでは内閣府の一支局のような存在だったが、大臣がいる独立した省庁になった。基本六法や組織規定などの内部規則を一から作らなければならなかった」

 ―平野氏は当時の復興庁の雰囲気について、何かやらなければという危機感が共有されていたと証言している。
 「霞が関の職員は意外と現場を知らない。あの時は財務省が旅費を潤沢につけてくれたので、どんどん被災地を見に行かせた。現場を見たら当然『やらざるを得ない』となった」

 「被災地では朝早く最寄りの駅を降り、おにぎりとペットボトルを持って車で現場に行き、夜に帰る。正直、皆が適応できたわけではなかった。しかし、やる気のある職員にとっては『現地の役に立てる』というやりがいを得られる仕事だったと思う」

 「派遣元の省庁では、やりたいことがあっても、課長から大臣まで決済を取って、財務省を通す必要がある。ところが、復興庁は統括官の岡本まで持ってくれば、隣にいる財務省の派遣職員が『うん』と言って決まる。(復興のため)法律に書いていないようなことが素早く実現するという成功体験は、言葉が適切かどうか分からないが『役人冥利(みょうり)』に尽きたと思う」

 ―本県の原子力災害の被災者支援についてはどうだったのか。
 「本来は原子力災害対策本部の仕事と思うが、原発事故でどこに誰が避難したかを把握する役割を、前身の被災者生活支援特別対策本部から引き継いで担った」

 「支援本部の時代には、大手コンビニチェーンに協力を求め、全国の店舗に知らせを張ってもらった。そこには『避難先自治体か避難元自治体に、現在の居場所を届けてもらうと、各種の支援が受けられます』と書いた。避難先の自治体とも連携しながら、避難者の把握が進んでいった」

 「ただ、避難先に行けば当然お叱りを受ける。その役割は平野氏が担い、12年12月に政権交代してからは副大臣の浜田昌良氏(当時)が担当した」

 政治主導を大島氏が、露出部分は首相に

 ―自民党と公明党の連立内閣に政権交代し、復興庁の雰囲気は変わったのか。
 「現場は変わらない。だが与党説明の手続きは大きく変わった。民主党はなかなか結論を出してくれなかったが、自民党は(会議で)きちんと結論を決めるという慣習があった」

 「一定のところまできたら結論を出すのが、部会長であり『ドン』の仕事。歩み寄る、あるいは貸し借りにする。反対する人もどこかで矛を収める。本当に反対なら(採決の際に)欠席するとか。長年の与党としての知恵と経験だろう。中でもかじ取りが抜群だったのは、東日本大震災復興加速化本部長の大島理森氏(現衆院議長)だった」

 ―安倍政権では官邸主導のいわゆる『政高党低(せいこうとうてい)』の状況だった。しかし、復興だけは与党加速化本部が提言をまとめ、官邸などを動かしていたように思うが。
 「その通り。あそこは『党高政低』。大島氏の実力によるものだが、それからまあ、手前みそやけど、こういうことがあった。大島氏が『提言を官邸に持っていく』となった。『えらい面倒くさいな』と思ったんやけど『これはええわ』と。それで官邸に行った」

 ―どのようにしたのか。
 「首相の安倍晋三氏(当時)に会って『大島先生から提言が出ます。内容については僕らも関与しています』と伝えた。『どう言えばいい』と言うので『この通りします、と言って復興大臣におろしてもうたら、僕ら(官邸での受け渡しの際に)後ろに座ってます』と答えた。官房長官の菅義偉氏(現首相)にも説明して了解を得た」

 「大島氏と公明党東日本大震災復興加速化本部長の井上義久氏が提言を渡す場の設営とシナリオを、全部俺が書いた。そこで首相が『この通りやる』と。俺たちも『ヒエー』と言いながら『言われたらしゃあないやな』と言って(政策実現に)関係者を説得した」

 「そのうち(2次、3次と提言が続く中で)この手口がばれた。『全部岡本が書いてるんだろ』と言われたが、そうではない。大島氏は、役人で手を出せないような課題について、政治主導で全部やってくれはった。安倍氏も菅氏も与党も、俺を信頼してくれていたからできたことだ」

 ―他に整えた復興関連の仕組みは何があったか。
 「首相秘書官に言って、首相になるべく被災地に入ってもらうようにした。最初は1年に4回以上。途中からはパターン化して年に4回にしようやと。福島は2回、岩手と宮城は1回。福島、岩手、福島、宮城(の順)。安倍政権の後半はきれいに守られているはずだ」

 「官邸とか経済産業省はテープカットとかを入れたがるが、復興の進んでいるところと『まだまだでっせ』というところを選び、首相の頭の中をつくってもらう。現場は首相の視察が励みになる。それが政治だ。政治主導を大島本部が支え、露出部分は首相が担う。そのシナリオを書いた」

 「大熊町長だった渡辺利綱氏には、大川原地区を首相が視察する時に『地図もええけど、模型を作って(まちづくりの方針を)説明してくれ』と頼んだ。絵になるし、首相の頭にも入る。(麻生内閣の)首相秘書官の経験によるものだ」

 経産省は住民避難の責任果たしているか

 ―本県の復興は、原発事故で避難指示が出た地域を除染、インフラが復旧して帰還するというこれまでにない事業だ。どのように取り組んだのか。
 「帰還困難区域は(長い間)人が戻れないという整理だったので、われわれはまず居住制限区域と避難指示解除準備区域のことを考えた。どれだけの人が戻るのかと考えたときに、あそこには8万人の雇用があった。そのうち2万人が原発を含めた東電関係だ。この2万人が抜けて残り6万人は持つか。経済の循環から考えて、それは無理だという結論になった」

 「そこで、産業再生に動いたのが、福島相双復興推進機構(福島相双復興官民合同チーム)だ。彼らは地道に被災事業者の営業再開などを支援した。意向調査で住民がなかなか戻らないことが分かると、新しく住民を受け入れるという第2の柱を立てた。彼らの取り組みは評価されるべきものだと思う。そこに(企業誘致なども含めた)福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想と農業再生が絡んで動いているというのが実情だ」

 ―帰還困難区域についてはどうか。
 「なかなか表現は難しいが、長い間帰れないということで故郷喪失の慰謝料が支払われている地域だ。これまでに避難指示が解除された居住制限区域などとの間には違いがある。線量が低くなった地域に復興拠点を設けるところまではいいが、全面的に除染して解除するとなれば、もう一度議論が必要になるだろう」

 ―間もなく震災から丸10年となるが、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故を受けて、日本の政府や官僚機構はどう変わったのか。
 「後世の人に批判してもらわないかんけど、俺としては及第点もらえるだけのことはしたんじゃないかと。何かというと、今までの制度を超えて新しいことに次々着手した。国土の復旧ではなくて暮らしの再建だということで、産業復興に手を出し、コミュニティーが切れないようにやった。企業やNPOの力も借りた」

 「100年間、あるいは戦後50年の政府方針を『コペルニクス的転回』し、拡大したと思う。そうせざるを得ない大災害だった。その構図を俺が建てた。この構図について、国民の負託に応えたかどうか、批判するか評価してもらえればと思う。『まだまだ(課題が)あるわい』と言われたらそこまでやけど」

 「あと、原発事故は全然別の話だ。事故の加害者は東電と経産省だが、経産省の福島への『つぐない』については問題がある。彼らは事故の道義的な責任を背負い続けなければならないが、その組織機構がしっかりしていない。内容に指摘はあるだろうが、東電は富岡町に廃炉資料館を造った。経産省はどうか」

 「住民避難で発生したことへの責任を果たしているのか。『寝た子を起こす』のではなく、責任から逃げているものを逃がさないための議論だ。経産省の新採用職員がね、『先輩がやったことです』なんて言うても、そんなの通らへん」