【証言あの時】元県議会議長・佐藤憲保氏(下) 原発への決別宣言

 
全基廃炉の請願を採択し、互いに握手を交わすなど本会議場を後にする県議。右に佐藤の姿がある=2011年10月20日

 「請願245号を採択と決するに、ご賛成の各位のご起立を求めます」。2011(平成23)年10月20日、県議会の本会議場に議長の佐藤憲保の声が響く。多くの議員が賛意を示して立ち上がり、請願は採択された。佐藤は、その瞬間を「頭が真っ白になった」と振り返る。「県内全ての原発の廃炉を求める請願」。原発が立地する道県議会で全国初の原発への「決別宣言」だった。

 本県は、東京電力福島第1、第2原発が生み出す雇用、経済効果と「共存」してきた。東電のトラブル隠しに伴う県内原発の全基停止など、複雑な経緯をたどったが「共存」は続くと思われていた。3月11日に原発事故が起きるまでは。

 原発事故後、知事だった佐藤雄平は災害対策本部の業務に集中することになり、結果としてさまざまな要望を県議会議長の佐藤が受ける機会が多くなった。佐藤は、所属する自民党の考え方とは異なる団体などからの訴えも分け隔てなく聞いた。

 ただ、11年夏ごろになると、佐藤の元には「東京サイドや経済界から、少なくとも被害を受けていない第2原発は残すべきだという秋波が相当送られてきていた」という。国策として進められてきた原子力政策の揺らぎに、巻き返しを図ろうとする動きが出ていた。

 原発事故で傷を負った本県だったが、原発そのものへの対応を決めきれない状況が続いた。6月県議会、共産系の団体から県内原発の全基廃炉の請願が出されたが、採決に至らず継続して審議することになった。

 迎えた9月県議会、請願を審議する企画環境委員会は、この請願を再び「継続審議」として、判断を先送りする方向で動いていた。ここで、一つの偶然が起きる。委員会での投票行動の手違いなどにより、この請願を本会議で採決しなければならない事態になったのだ。福島県に原発は必要なのか。にわかに県議会の判断が迫られた。

 報告を受けた佐藤は「県民の大多数は原発との共存は終わりと思っている。対応を間違ってはいけない」と考えた。議長は議会での審議について、公正中立の立場を守ることが求められる。だが、佐藤は動いた。

 最大会派である自民党の会議に出向き、議員に呼び掛けた。「これを蹴っ飛ばしたらどうなる。県民から総スカンだからな」。誰もが言い出せなかった原発への決別。佐藤の一言が原動力となり、県議会は請願を採択し、全基廃炉の意思を示した。後に続くかのように、県も「脱原発」の方針を宣言することになる。

 「原発の安全神話に侵され続けてきた反省を含め、県民の声を受け止めた判断だった」。県政史のページをめくった判断に「後悔はない」と言い切る。(敬称略)

 請願 国民に認められた憲法上の権利の一つ。国や自治体などに意見や希望を述べることを言う。県議会に対する請願は誰でも提出できるが、県議の紹介が必要。請願が出された場合、常任委員会などで審議した上、本会議で採択または不採択の決定を行う。委員会で「継続審議」となれば、その議会では本会議での採決には至らない。本会議で採択された請願は知事などに送付されるため、請願の採択は「議会の意思」を示すという意味合いがある。

【佐藤憲保元県議会議長インタビュー】

 東京電力福島第1原発事故の発生当時、県議会議長だった佐藤憲保氏(66)に、県議会として原子力政策とどう向き合ったのか、そして原発事故後の県と政府与党との関係などについて聞いた。

「第2原発残すべきだ」経済界の秋波は相当 

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災と原発事故後、県議会はどのように行動したのか。
 「3月11日は県議会の会期中で、まだ議会日程が残っていた。日程を繰り上げて閉会し、各議員に『それぞれの地域で被害調査に当たれ。報告は全部、議会事務局に上げてよこせ。全部対応する』と通知した。6月議会あたりまでは大混乱で、余裕なんてなかった」

 ―議長として、県の災害対策(災対)本部にも出ていた。
 「当時は多くの要請や陳情も受けていた。知事だった佐藤雄平氏は、災対本部で忙しいということでほとんど受けていなかった。それで(陳情などが)俺のところに来た。どんな団体だろうとも全部聞いた。原発をなくしてほしいという要請も受け、いずれ(原発についての)対応をしなければならないと思っていた」

 「その半面、6月議会が終わった夏ごろから、東京サイドを含め、経済界から『少なくとも(大きな)被害を受けていない第2原発は残すべきだ。廃炉にするのはおかしい』という秋波は相当送られてきた。県内の原発についてどうするかという判断は当時、雄平知事もできなかった」

 「経済界や(電力会社でつくる)電気事業連合会、そして政府も原子力行政に対する不安は持っていた。原発事故後、このまま推進できないのではないかと。だから、第2原発は最低でも残してもらいたいというのが大方の、あっちサイドの思いだった」

 ―原子力政策を巡っては、長く政権与党だった自民党は推進の立場だった。
 「原発立地の推進議員連盟みたいな集まりがある。年1回必ず会議があり、自民党福島県連から幹事長が出席した。自分が(議長を務める前の)幹事長の時も出席した。その時、議員連盟会長だった細田博之氏(衆院議員、自民党細田派会長)に『福島のプルサーマル、早く方向性を出してくれよ』と言われていた」

 ―原発の核燃料を再利用する核燃料サイクルの一環として計画されていたプルサーマル発電か。
 「そうだ。本県では第1原発3号機で計画されていたが、02年に東電のトラブル隠しが発覚し凍結されていた。それで県議会議長になった時に『そろそろ、やってやらねえとな』と思い、雄平知事に『(議会として)ゴーサイン出すぞ』と言ったら、雄平知事はいい返事をしなかった」

 「だが、『一定の(プルサーマル発電の)経過を経なければ、原発行政の推進維持もできないという判断で受け入れするからな』ということで、議会内の手続きを進め、議長の時に(プルサーマルについての)結論を出した。そういう経過があったので、原発事故の後でも(第2原発や原子力政策の維持の要請などについて)むげにはできないと悩んでいたのは確かだ」

 ―そのような中で、6月県議会に県内原発の全基廃炉を求める請願が出された。その時は継続審議の判断となり、9月議会で再び審議することになった。
 「そうだ」

俺がプルサーマル推進を決断重い責任背負う

 ―請願を審議していた委員会での対応で、想定していなかった本会議での採決をしなければならなくなった。
 「その通りだ。報告を後から聞いた時に『え、何でそうなっちゃったんだ』と思った。この請願を本会議でどう扱うかは、(県議会最大会派の)自民として対応が定まっていなかった。だが、請願への県議会の対応が注目されることになった」

 ―どのようにしたのか。
 「これを(県議会として採決しないで)蹴っ飛ばしたら県民から総スカンだと考えた。それで、俺は議長だから委員会や部会に交ざらないのが原則だけど、部会に出て『これ蹴っ飛ばしたら総スカンになる。これは認めざるを得ないぞ』と言った。それで本会議で採択する流れになった」

 ―自民党の会派内の反応はどうだったのか。
 「あの被害を受けたのだからやむを得ないと、大多数は思っていたのではないか。だが、そう思っても簡単には言えなかったはずだ。自民から『原発縁切りだ』ということは。特に役員の経験者などは、みんな(これまでの経緯を)分かっているわけだから」

 ―県議会としての全基廃炉の意思表示となったが、どのように考えているか。
 「(原発の)安全神話に侵され続けてきたっていう反省も含めて、やむを得ないんでないかという決断だった。100パーセントとは言わないが、県民の大多数は原発との共存は終わりだという判断をしていた。その声を議会が受け止めたということだ。推進派も反対派も」

 ―請願を採択した時、議長席にいた。当時はどのような心境だったのか。
 「あの時は真っ白になった。それまでの経緯もあったから。自分にとって、原発事故で命を失った県民がいるという重さは、何物にも代え難い判断材料の一つだった。まして(原発事故が一定程度)落ち着いてきてからも、将来を悲観して自殺したというニュースが出てくるたびにそう思った。俺はプルサーマルの推進を決断した。重い責任は(今も)背負わされてるんだ」

 ―県議会の判断について中央などからの反応は。
 「それが、物の見事になかった。党本部や経済産業省などから何かあると思ったが、決断した瞬間に批判などはなかった。これは福島県で決断する話だと(考えてくれたのだろう)」

 ―「原発との共存」を断ち切ったことの後悔は。
 「ない。福島県は戦後、生き残るため電源開発を中心に据え発展してきた経過がある。初めは水力。それが一時、原発にシフトしただけで、原発がなくなったから県の将来がうんぬんなんてことはない。再生可能エネルギーなど新しいものをつくるのも福島県だ」

子ども目線の復興が必要だったか

 ―12年12月、自民党と公明党の連立内閣が政権を奪還する。本県と政府与党との関係に変化はあったか。
 「衆院選が終わり(第2次)安倍内閣がスタートしたのが12月26日で、27日と28日で(通常は)御用納めだ。27日に自民党本部から県連に『福島の震災対応で今までやっていたメニューを含め、全部見直して出し直せ』という連絡が来た」

 「そこで、当時副知事だった内堀雅雄氏のところに行き『明日までに全部メニューを作り直して福島県のオーダーを出してほしい。年明けの(13年)1月4日に(対策や予算を)閣議決定する話だ』と伝えた。内堀氏や当時の総務部長の鈴木正晃氏(現副知事)らが中心となり作業を進めた」

 ―復興政策の見直しの結果、どうなったのか。
 「項目をチェックしていた時、ある事業に『何だこれ、震災に関係ねえべ』と言ったら、鈴木氏が『いや、この際だから(本県にとって必要なので)入れましょう』と言う。(党本部に)上げたらそれも含めて全てに(政府の)予算が付いた。鈴木氏のあの辺のしたたかさはピカイチだ」

 「(復興庁事務次官などを務めた)岡本全勝氏と福島市で会った時、彼が『福島には怪物が2人いる。1人は鈴木正晃。霞が関にもなかなかいない』と言う。『もう1人は誰だ』と聞いたら『目の前にいる』と言われたことがあった」

 ―その岡本氏は、与党東日本大震災復興加速化本部が復興政策で重要な役割を果たしたと証言している。
 「その通りだ。加速化本部で決めたことで霞が関が動いていた。こちらとしては双葉郡選出の県議、吉田栄光氏を加速化本部の担当にした。被災地の立場などを本部長の大島理森氏(現衆院議長)らに伝え、政策実現につなげた。実感として分かる人は少ないけど、本当にそうなんだ」

 ―中間貯蔵施設については関わったのか。
 「県議会はタッチしていない。なぜなら、仮に雄平知事が県議会に諮り、誰かに『原子力施設から出た廃棄物は全部県外に持ち出すのが原則でないのか』と原則論を言われたら終わりだ。あれは通常の手続きではできない施設で、お互いにそれは分かっていた。だからこそ、雄平知事は苦しい立場だった」

 「雄平知事は他の人にやらせるわけにはいかないと受け入れを決め、後は次の人に任せたわけだ。(受け入れ判断後に)スパンと政治の場から身を引いた決断も含め、あれはなかなかできない」

 ―震災から間もなく丸10年となる。今の復興をどう見るか。
 「あっという間の10年というのが率直な思いだ。被災当時の議長だった責任として、政府と連携し地元の意向を組み込んだ復興を進めたつもりだ。しかし、振り返れば、それは震災前の状況に戻したいという大人目線の復興ではなかったか。子ども目線からの復興を取り入れるべきだったかなと痛切に感じる。震災当時の子どもは成長し、若者になっている。彼らが古里に戻ろうと考える理由とは何かを、真剣に考えなければならない時期だろう」

 プルサーマル 原発の使用済みウラン燃料から取り出したプルトニウムとウランを混ぜた混合酸化物(MOX)燃料を軽水炉で使用する発電方式。原発の使用済み核燃料を再処理して再び使用、再利用できない廃棄物を処分する核燃料サイクルの中で、プルトニウム利用の方法として位置付けられてきた。プルトニウムの「プル」と軽水炉(サーマルリアクター)の「サーマル」を組み合わせた言葉。