【証言あの時】双葉町長・伊沢史朗氏 国策に翻弄「魂の叫び」

 
伊沢史朗双葉町長

 「双葉町はまた国策の犠牲になって、結局はなくなってしまうのですか」。2014(平成26)年1月11日、双葉町長の伊沢史朗は東京電力福島第1原発事故による避難で荒れ果てた自宅で、復興相の根本匠に訴えた。安全神話に陥った原子力政策という国策に翻弄(ほんろう)された双葉町には、中間貯蔵施設の設置という「新たな国策」への判断が突き付けられていた。双葉の苦境を感じてほしい―。伊沢の魂の叫びだった。

 原発事故当時、双葉町議だった伊沢が、双葉町長に就任したのは13年3月だった。政府が、除染で生じた土壌などを集約する中間貯蔵施設の県内設置を打診したのは11年8月で、すでに2年近い歳月が経過していた。伊沢の前任の井戸川克隆は明確に反対の意向を示していたが、候補地は双葉、大熊、楢葉の3町にまで絞り込まれていた。

 伊沢は当時、「福島の復興を考えれば、どこかは受けなければならない。最終的に間違いなく、われわれにかかってくる」と感じていた。しかし、町民の心の内を思うと「理解を得られるハードルは相当高い」と思い悩んでいた。同じ境遇だった大熊町長の渡辺利綱、楢葉町長の松本幸英と頻繁に集まって話し合った。

 14年1月、松本が中間貯蔵施設の受け入れを拒否し、県に対して施設配置の再検討を申し入れる。この件について、伊沢は「正直、3町長で話した。それ以上は私からは言えない」と述べるにとどめたが、松本の意向を渡辺とともに受け止めていたことを明かした。

 ここから、伊沢は「ただ国策の犠牲にはならない。町民に納得してもらえるだけの最低限の条件だけは何としても整える。条件が整わなければ判断なんてしない」と覚悟を決める。渡辺と二人三脚で、土地の買い上げ制度の充実などに向けて、政府や与党と時に激論を交わす交渉を重ねた。

 条件が整いつつあった14年8月、伊沢と渡辺は郡山市で根本と会った。根本は2人に「大熊・双葉ふるさと復興構想」を示した。政府として、両町が設ける復興拠点に全力で支援するという内容だった。伊沢は、かつて根本に迫ったことを思い出し「答えてくれた。双葉も何とかなるかもしれない」と安心したという。伊沢は15年1月、建設容認を町議会に報告した。

 双葉では、先行して避難指示が解除された中野地区で、産業再生への取り組みが進む。帰還困難区域の復興拠点も22年春ごろに、帰還に向けた生活インフラが整う見通しだ。新型コロナウイルスの感染拡大で工期への影響が懸念されるが、伊沢は「10年我慢した。少しのことでは動じないよ」と、不屈の意志がこもった目で古里の将来を見据えた。(敬称略)

 【伊沢史朗双葉町長インタビュー】

 双葉町長の伊沢史朗氏(62)に、中間貯蔵施設の建設受け入れを巡る経緯や古里再生に向けた思いなどを聞いた。

 賠償格差、自分は町長としてやっていけるのだろうか

 ―町長の就任は2013(平成25)年3月。当時の双葉町を取り巻く状況はどのようなものだったか。
 「双葉は被災自治体の中で唯一、埼玉県加須市に県外避難した。東日本大震災当時、町議だった私も町と一緒に避難していた。13年は、他の自治体が少しずつ復興へ動きだしたように感じていた」
 「福島県から離れた場所にいたため、情報がタイムリーに入ってこなくてすごく不安だった。ですから、福島の情報を早く知ることと、双葉も他の自治体と同じく復興に取り組んでいかなければと思っていた」

 ―5月には避難指示区域が再編されましたが、どのような思いだったか。
 「私は就任時、前町長の井戸川克隆氏からも、(井戸川氏退任から伊沢氏の就任まで町政を担った)町長職務代理者からも直接引き継ぎを受けていない。書類だけだ。どういう案件が、どう問題になっているかという情報を持っていなかった」
 「その状態で就任から6日目の3月16日、いわき市で開いた浜野・両竹地区の住民を対象にした説明会に行った。町を帰還困難区域と避難指示解除準備区域にすることを説明するものだった。しかし、両区域の間には賠償格差があった。浜野・両竹地区は解除準備区域なので『同じように避難していて、なんでこんなに差があるんだ』という不満の声が上がった」

 ―どう対応したのか。
 「その時は『時間をいただきたい』と言って帰った。それで(同じく賠償格差に悩んでいた、当時の)浪江町長の馬場有氏(18年に死去)とも連携して、政府から財物賠償のベースアップを引き出した。少しでも条件が改善されたことを2回目の説明会で示した」
 「それでも理解を得るには厳しかった。だが、震災から2年、住民は生活に困窮し、区域再編を決めないと賠償を受けられない状況だった。帰還困難は町の96%、準備区域は4%だ」
 「それで思い切って『皆さんも帰還困難区域の人も同じ町民です。同じ町民同士で、賠償を請求できない状況でいいんですか。大変なことになるんですよ』と正直に言った。すると、代表の方が『分かった。涙をのんで了解する』と言ってくれた。正直、(厳しい現実に)自分は町長としてやっていけるのだろうかと思った」

 ―6月17日には町役場の本体機能を埼玉県加須市からいわき市に移転した。
 「町議時代に特別委員会をつくり、住民の意向を調査した。役場を移転するなら福島県内、それもいわき市を望む声が多かった。この結果を踏まえ、まず役場機能をいわきに戻した。何というか、福島から離れていた引け目のような思いがあった。復興の仲間に入ろう、これからがスタートだという気持ちだった」

 ふるさと構想、「何とかなる」光明が差した

 ―中間貯蔵施設は、双葉町の大きな課題だった。前任の井戸川氏は受け入れに反対だったと証言した。どのような認識だったのか。
 「当時は中間貯蔵施設を設置できるかどうかの調査が進んでいた。双葉に原発ができたということは地盤は悪くない。(だから、)調査して(双葉は)駄目だということはないだろうと感じていた」

 ―町単独だけではなく、双葉地方町村会という枠組みでも打診を受けていたと思う。双葉郡の他の首長や県幹部などと、どのような話をしていたのか。
 「当時の双葉は後から来た『新参者』のようなもので、復興(政策の話し合い)のベースに入っていない感じがした。さまざまな会議に出て、どういう状況なのかを把握するので精いっぱいだった気がする」

 ―13年12月、政府が調査結果に基づき双葉、大熊、楢葉の3町に施設の設置を改めて要請してくる。どのように考えていたのか。
 「受け入れ判断に関しては広域自治体の県、さらには候補地の3町でしっかり話をして決めなければならないと。(話し合いは)トップダウン、ボトムアップの両方をやっていた」

 ―大熊町長だった渡辺利綱氏や楢葉町長の松本幸英氏とはどのような話をしていたのか。
 「福島の復興を考えたら、どこかは受けなくちゃならないなと。だけど『自分の町が』という感覚ではなかったと思います。だけど、条件をつぶしていくと最後はこの3町、間違いなく、われわれに懸かってくるなとは考えていた」
 「だが、仮に受け入れるとしても町民の理解、納得のハードルは相当高いと思っていた。それに、自分たちがこの判断をできる立場なのかと悩んでいました」

 ―14年1月、楢葉町は施設を引き受けられないとして、施設計画の再編を知事だった佐藤雄平氏に申し入れた。松本氏から事前にこの相談はあったのか。
 「正直、3町長でよく集まって話はしていた。まあそれ以上、私からは言えないが、話はしていた」

 ―政府は双葉町と大熊町への集約を認めるが、渡辺氏はこの後、施設を巡る条件について伊沢氏と連携して交渉を進めたと証言している。
 「政府は当初、原発事故を理由に(候補地の)土地を震災前の半額で購入すると言ってきた。上から目線のようだったので『誰が悪いんですか。われわれは国策の犠牲になっているんですよ。この(中間貯蔵の)話なかったことにしますよ』という感じで相当やりました。最終的に、差額は交付金などを使って充当できた」

 ―渡辺氏は、自民党東日本大震災復興加速化本部に通ったと証言している。
 「本部長だった大島理森氏(現衆院議長)に『日本一の迷惑施設です。最低限これなら仕方ないという条件を(政府から)出してもらわないと、町民の理解は得られない』『町の存続に関わる重大な案件。(受諾すれば)復興はマイナスからのスタートになるでしょう。私たちはそれでも復興を進めるという立場でここに来ています』とか言ったのを覚えている」

 ―復興相だった根本匠氏は、伊沢氏から地域構想づくりの依頼があり、その策定が町の建設受け入れの一つの要因になったと証言している。
 「根本氏が双葉を現地視察した際、双葉の現状を感じてもらおうと思った。当時の町内は、家の外観は震災前と同じように見えるが、内部は野生動物に荒らされ荒廃していた。他の家を見せるわけにもいかず、自宅に案内した。そこで『この家、あとどうすればいいんですか』と投げかけた」
 「さらに『大熊と双葉はこれだけ大変な状況で日本一の迷惑施設をやるんです。国の支援が必要です。それがなかったら(原発事故で)国策の犠牲になって、また(国策の中間貯蔵施設の)犠牲になって、結局はなくなってしまう町になるんじゃないか』と訴えた。そして『ここを救うための制度のベースをつくってほしい』と頼みました」
 「そうしたら、根本氏は『大熊・双葉ふるさと復興構想』をつくってくれた。動いてくれたと思った。現在の復興拠点の整備は、この構想が基になっている。『もしかしたら、双葉町も何とかなる可能性があるんじゃないか』と、光明が差したように思った」
 「どこかは中間貯蔵を受け入れなければならない。それが双葉と大熊だった。でも、ただ犠牲にはならない。住民に理解してもらうための最低限の条件は整える。思うようなものでなければ判断なんてしないという、ぎりぎりの交渉を国、県として決断しました」

 帰還より産業再生の取り組み先行、あえて挑戦

 ―双葉町では避難指示解除準備区域として先行解除された中野地区で産業再生の取り組みが進む。
 「双葉町(の復興)は、ほかから1周、2周遅れと言われていた。だから、復興を実感してもらうため、住民が帰還してから産業や雇用を再生させるのではなく、(中野地区で先に産業再生を進めてから住民が帰還するという)逆の取り組みにあえて挑戦した。交流人口を増やす鍵となるアーカイブ施設(東日本大震災・原子力災害伝承館)の誘致もできた」

 ―誘致は順調だったか。
 「あれは、福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想に位置付けられた施設なんです。浜通りの被災地再生を図る構想なのに、双葉には関連施設が一つもなかった。だから、政府や県に『国策のイノベ構想の目的は何ですか。双葉に何もないっておかしくないですか』と言っていた。それを配慮してくれたのかもしれない」

 ―17年5月に福島復興再生特別措置法が改正され、帰還困難区域内に復興拠点を設けられるようになった。整備計画は双葉が一番早く政府に認定され、拠点整備の目標は22年春ごろとなった。
 「『これで戻って住む場所をつくることができる』と、すごく楽になった。町民から『いつ戻れるんだ』と言われて、答えられなかったのはきつかった。どのように戻るかは常にシミュレーションしていたので、すぐに(計画を)申請した。担当職員には『こちらの要求が通るよう(政府には)高い球を投げろ』と指示した。おおむね、思い通りの形で認定された」

 ―東京電力福島第1原発(双葉町、大熊町)で発生する放射性物質トリチウムを含む処理水の処分方法が注目されている。
 「原発敷地内に置く場所がなくなるからといって始まった議論ですよね。ところが、今になって長期保管、中には中間貯蔵施設に置けばいいという話も出てきた。また双葉と大熊に背負わせればいいという考えは無責任。その気持ちが見えるのも情けない。われわれはどんな思いで中間貯蔵を引き受けたと思うのか。その辺を勉強し直してほしい」

 ―間もなく震災から丸10年。後世に伝えたいことは何か。
 「復興拠点ができるのは来年の春以降。新型コロナウイルスの問題があって工事の進捗(しんちょく)も変わっている。でも10年我慢してきた。あと少しだからびくびくすることはない。しっかりとした町をつくることが大前提だ。双葉は『町を元に戻す』ということではなく、他ではやらないような方法で『町を残す』ために取り組んできたことを、後世の人に分かってほしいですね」