【証言あの時・番外編】故馬場有浪江町長 避難判断に後悔

 
東電幹部らに事故の責任などを追及する馬場氏(中央)。右は町議会議長だった吉田氏、左は副町長だった上野氏=2011年7月1日、二本松市・県男女共生センター

 「俺がしたことはまずかったのかな」。浪江町長だった馬場有(たもつ)が当時の副町長、上野晋平に何度も漏らした言葉だ。馬場は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の中で下した自らの決断に、深い後悔を抱いていた。上野は「彼が悪いのではないのに、責任感が強いから自分自身を許せなかったんだ」と振り返る。

夜捜索していれば

 2011(平成23)年3月11日、津波が浪江町を襲った。馬場らが詰める町の対策本部に、現場から戻った消防団員らが惨状を伝える。闇の中で気配を感じた団員が「誰かいるか」と声を掛けると、複数のうめき声が聞こえたというのだ。助けなければならない町民がいる―。だが、団員らの二次災害を恐れた馬場は、捜索を12日朝から行うよう指示するしかなかった。

 やりきれない思いのまま町長室にいた馬場は、明け方、テレビから流れるニュースに驚く。原発の半径10キロ圏内に避難指示が出ていたのだ。馬場は、何も知らされないまま住民を町北西部にある津島地区に避難させることを決める。「生存者を放置してしまった」「夜に捜索していれば」。馬場の心に深い影が刻まれた。

 馬場は津島地区での数日を、「孤立無援の籠城状態」と感じていた。情報は届かず、食料にも窮した。山間部の集落では約8千人の避難を受け入れようもなく、子どもを含む多くの町民が屋外で活動していた。後に馬場は、津島が原発事故で放出された放射性物質の通り道となり、高線量だったことを知る。「自分は町民に無用な被ばくをさせてしまった」。馬場は自責の念をさらに深めていった。

「町残し」病床でも

 二本松市を避難先に定めた後、本来温厚な性格の馬場が、原発事故の責任追及の急先鋒(せんぽう)に変わった。「町民の命を何だと思っている」。謝罪に訪れた東電幹部には厳しい言葉で迫った。一方で町民からは「町長は何してるんだ」と、進まぬ復興への不満をぶつけられた。馬場は上野や町議会議長だった吉田数博ら数人を同志とし、我慢強く古里再生を進めた。

 帰還困難区域を除く町内の避難指示が解除され、スローガンの「町残し」が形になろうとしていた17年12月、馬場が入院する。病床から公務に当たったが、病状は思わしくなかった。

 「俺はもうだめだ。後は頼む」。馬場は18年2月、見舞いに訪れた吉田に訴えた。馬場にとって、吉田は自分のすぐそばで、震災後の苦楽を共にした存在だった。吉田は馬場の思いを酌み、町長選出馬を決める。馬場は「良かった」とだけ述べたという。

 選挙の準備に入った吉田が、馬場と長い時間を過ごした二本松市にいた時、携帯が鳴った。「たった今亡くなりました」。18年6月27日、浪江町の将来を誰よりも憂い、行動していた馬場が、69歳の生涯を閉じた。原発事故から10年。馬場の志は今、町長となった吉田に引き継がれている。(文中敬称略)

【当時の状況を聞く】

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故当時、浪江町の副町長を務めていた上野晋平氏(74)と町議会議長だった現町長の吉田数博氏(74)に、故馬場氏が浪江町長としてどのように政府や東電と向き合っていたのかについて聞いた。

元浪江副町長・上野晋平氏 馬場氏は誠意のない「保安院」を「不安院」と呼んでいた

 ―震災時(2011年3月11日)はどこにいたか。
 「浪江町役場の町長室で人事異動の最終打ち合わせをしていた。激しい揺れで立っていた私は壁まで3メートルほど飛ばされた。すぐに対策本部を開き、津波に備えて防災無線を通じて住民に避難を呼び掛けた」

 「津波が来たというから役場の4階に上がった。そうすると、海の方から黒いものが押し寄せてくるのが見えた。夜には『人のうめき声が聞こえた』などという情報が入り、(津波被災地でまだ生きている人を)『明日助けに行かないと』という話をしていた」

 ―町の記録では3月12日朝6時の会議で、原発から半径10キロからの避難を決めたとあるが。
 「11日夜には携帯電話が通じなくなり、原発の情報などは全く入っていなかった。町長室でまどろんでいた馬場氏が早朝たまたまテレビを見て『(原発の半径)10キロから避難しろと言っているぞ』と気付いた。そこで10キロ圏内の避難所を移動させ始めた」

 「さらに避難しなければならないとしたら次は津島地区だという話になった。馬場氏から『先に調べてくれ』と言われ、朝に津島に向かった。通常は30分で着くところが混雑で3時間かかった。戻ってくると正式に津島行きが決まっており、私は最後に役場の鍵を掛けて再び津島に向かった」

 ―12日午後に福島第1原発1号機が爆発するが。
 「津島は山間部でいっそう携帯電話が通じないから、分からなかった。みんな学校や集会所、個人の家などに避難した。状況が分からないので子どもらは外で遊んでいた。このころ、県は『浪江はどこに行った』と捜しており、13日に衛星電話を1台持ってきた」

 ―津島地区の次に二本松市に避難するが、どのようにして判断したのか。
 「ある町議が親戚のいた葛尾村に行ったことで双葉郡のほかの町村の状況が分かった。もっと遠くに逃げなければと考え、隣の二本松市にした。15日朝から避難を始めた。災害対策本部は二本松市の東和支所に落ち着いた」

 「東和にいたころ、当時の原子力安全・保安院の寺坂信昭院長から電話が入った。馬場氏はもう政府に不信感を持っていたので電話に出ない。私が出ると、寺坂氏は『放射線量が高いので、津島から遠くに離れるよう町民に啓発してもらいたい』と言ってきた。それで津島の放射線量が高いことを知った。馬場氏は誠意のない保安院を『不安院』と呼ぶようになっていた」

 ―5月になると当時の東電の清水正孝社長が謝罪に訪れた。この時の対応は。
 「連絡協定があったのになぜ原発事故を知らせなかったと聞いた。すると津島に人を出したという。外部の人間が来れば、情報に飢えていた私たちが気付かないはずがない。『誰に話したんだ』と聞いても『行った』としか言わない。結局はうやむやになったが、来ているはずがないんだ」

 ―12年3月に副町長を退任するまで、記憶に残る出来事はあったか。
 「中間貯蔵施設を浪江に造る話もあった。政府は町に打診せず、地権者に接触していた。津島辺りといううわさだった。11年12月の双葉地方総決起大会の後、馬場氏と私が原発事故担当相だった細野豪志氏と会って『浪江には造らない』と確約を得るまでは安心できない状況だった」

 ―馬場氏は震災と原発事故とどのように向き合っていたのか。
 「津波が来た後にまだ生きていた人を置いたまま避難したことと、放射線量が高いという情報を知らずに津島を避難先としたのを悔いていた。彼は最初の町の慰霊祭までひげをそらなかった。その本意は自らの老醜をさらしての贖罪(しょくざい)だったと思う」

 「政府は町に知らせずに復興政策や賠償基準を発表したので、町民の不満は馬場氏に向かった。一生懸命やっているのに厳しい言葉が浴びせられ、つらかったと思う。激務が馬場氏の命を縮めたのではないか」

浪江町長・吉田数博氏 「一人で書いた暗中八策」町の復興政策のベースになった

 ―震災当日は何をしていたか。
 「浪江町議会の全員協議会で議員定数の削減案を議論していた時、地震が起きた。そのまま町の災害対策本部にオブザーバーとして参加した。それ以降、馬場氏と一緒に行動した。馬場氏は慎重な人で、結論が出そうなときに『議長、これでいいだろうか』と聞いてきた。そのときにだけ自分の意見を言った」

 ―浪江町津島地区への避難、二本松市への再避難はどのように決めたのか。
 「原発の情報は入ってこなかった。11日の夜、私は隣にいた馬場氏が『原発大丈夫かな』と言っていたのを覚えている。その後、原発から半径10キロに避難指示が出されていたことを知り、津島に避難した」

 「再避難の時、避難先として福島、二本松、郡山、会津若松(の各市と)、県外などの案が出た。すでに双葉郡からの避難を受け入れている場所を除き、現実的に移動を考えた結果、二本松にお願いすることにした。馬場氏と私で15日朝に先方にうかがい、了承を得た」

 ―馬場氏は、津島への避難を後悔したと聞いたが。
 「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム『SPEEDI(スピーディ)』などの情報があれば別な場所に行ったはずだ。それが馬場氏の心に残った。(政府などは)予測だとかいうけど、情報が欲しいところに情報が届かないのは、やはり最大の罪だ」

 ―二本松市の東和支所に移動してからは。
 「東和支所で町長がいた部屋を『合宿所』と称して、馬場氏や私、副町長だった上野氏、そのほか数人の議員が泊まり込んで対応した。もうオブザーバーではなく、それぞれができることに汗を流して災害対策本部を支えた」

 ―5月に馬場氏は自らの復興に対する考えを、坂本龍馬の「船中八策」になぞらえて「暗中八策」としてまとめるが。
 「(『暗中八策』のコピーを手にしながら)一人で書いたんだろうな。当時見せられて、避難している状況の中で、よくやらなくてはならないことをまとめたなという感じを持った。合宿所のメンバーで『これでいこうか』となり、町の復興政策のベースになった」

 ―13年4月には町内の避難指示を3区分に再編したが、どのように決めたのか。
 「各地区の放射線量を測り、例えば帰還困難区域に相当する線量のある地点が半数を超えれば帰還困難区域、そうでないなら居住制限区域というふうにして決めた。判断に迷う地区があったことも事実だ」

 ―その年の5月には町が代理人となり、東電を相手に町民1万人超に及ぶ賠償の増額を求め裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てたが、馬場氏はどのような思いだったか。
 「精神的賠償は月に10万円。着の身着のまま古里を追われ、自動車事故の自賠責保険と同じというのはないだろうと話していた。馬場氏は悩んだ末に決断した。私は結果がどうなるか心配していた。(増額を求める)町の主張が認められた和解案が出た時は、馬場氏に『良かったな』と声を掛けた。東電は後に、その和解案を蹴った」

 ―帰還困難区域を除き、避難指示が解除された後に馬場氏が体調を崩した。
 「18年2月17日に福島市の病院に見舞いに行ったら『俺はもう駄目だ。後を頼む』と言われた。当時、私はもう政界を引退しようと考えていた。何人か後継者となるような人の名前を挙げても、馬場氏が納得しない。悩んだが、自分にも責任があると思い、馬場氏に引き受けることを伝えた」

 ―馬場氏の反応は。
 「『良かった』とだけ言った。その後、私は町議を辞めて選挙の準備に入った。ちょうど二本松市に行った時に、馬場氏の奥さまから電話があり『たった今、亡くなりました』と伝えられた。馬場氏は『町残し』を掲げ、生活環境を整備する道半ばで亡くなった。私は浪江町長として、その先の『持続可能なまち』をつくろうと思っている」

          ◇

 浪江町 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。東京電力福島第1原発事故により、山間部の津島地区に災害対策本部を移したが、後に放射線量が高いことが分かる。二本松市に再避難し、役場機能を同市東和支所などに置いた。13年4月には、町内が帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の3区域に再編された。帰還困難区域を除く地域は、17年3月に避難指示が解除された。現在、帰還困難区域内の3カ所で、住民が帰還する復興拠点の整備が進められている。