【 福島・文化通り(上) 】 時経ても同じ『空気感』 流行には敏感
県都・福島市の中心市街地。パセオ通りから福島稲荷神社に向かうこぢんまりとした石畳の通りに趣ある新旧の店々が軒を連ねる。夕暮れと朝の歩行者天国では多くの市民が通りを行き交う。
お寺や石屋が多かったことからかつて「石屋小路」と呼ばれたこの通り沿い。1953(昭和28)年に店を開いた高田食品店は通りでも古い店の一つとなった。父親の跡を継ぎ、店主を務める高田比佐之さん(76)は常連客と軽妙な会話を交わし、大皿に盛った自慢の「ジャンボ五目玉子焼」やコロッケを手際よくパックに詰める。出来上がったばかりの料理が並ぶ店頭だが、値段を示すものはない。「昔は値札もあったんだけど、今は結構適当なんだ」と笑う。
東京の大学を卒業し、修業を経て妻もも子さん(73)と店に戻ったのは東京五輪の翌年。子ども時代からなじみの通りはアスファルトの舗装に変わっていた。父の店は元々漬物を売っていたが、「これからは女性が働く時代だ」と総菜の販売に力を入れた。会社帰りのサラリーマンや子どもの弁当用など、総菜はよく売れた。
高度成長の時代、決して大通りとは言えない道にも人があふれた。「とにかくにぎやかだったな」と高田さん。衣料や家具、食品、靴の店など規模は小さくても流行に敏感な店が集まる福島の文化の発信地。「そういう場所だったからこそ『文化通り』という名前が付いたんだ」
◆生まれ続ける
92(平成4)年には商店街などの尽力で石畳が敷かれ、ハイカラな通りに生まれ変わった。高田さんは当時、テレビ番組のエキストラとしても活動。通りのイベントで歌や得意のマジックも披露し、人気を呼んだ。通りが最もにぎわう福島稲荷神社の秋祭りと七夕祭りの時期には店々が出店を並べた。「良い時代だった」。高田さんが店を空けた時にはもも子さんが店を守った。
昭和前半から今も残る店は片手でも数えられるほどになった。それでも「通りの空気はそんなに変わっていないんじゃないか」と高田さんは言う。一つの店が消えてもまたすぐに新しい店が生まれる。「小さな通りだけど空き店舗は意外と少ない。ここにずっといると分からない魅力があるのかもしれないね」
震災後、店には復旧・復興で市内に単身赴任で訪れた新しいお客も増えたが、今ではその姿も少なくなった。それでもいつもの夕方には、多くの常連客が高田さんの作る総菜の味を楽しみに店にやってくる。「親子3世代でうちのを食べてくれる。そんな人たちもいるんだよ」。高田さんの愛嬌(あいきょう)ある笑顔とともに、思わずもう一品と手を伸ばしそうになる楽しいおしゃべりの声が今日も店頭に響く。
≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪
【安倍晴明が建立したのが始まり】文化通りを東に抜けるとたどり着くのが、福島市の中心市街地に社を構える福島稲荷神社。987(永延元)年、当時朝廷に仕えた安倍晴明が社を建立したのが始まりとされる。現在の社殿は1938(昭和13)年に建てられ、89年には大規模な改修が行われた。秋の例大祭と元日の初詣では多くの参拝客が訪れ、にぎわいを見せる。
〔写真〕福島稲荷神社の秋の例大祭は、通りが最もにぎわう
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