【第2部・亜欧堂田善<上>】官製地図、一翼の画人

 

 出会いは人生を変え、ひいては歴史をつくる―。第2部の主人公の来し方は、この言葉に要約されるだろう。今年で没後200年を迎えた、須賀川が生んだ江戸後期の洋風画家、亜欧堂田善(1748~1822年)である。

 1810(文化7)年、日本初の官製世界地図「新訂万国全図」が完成、幕府に上呈された。海外の最新の世界地図を基に、間宮林蔵の樺太探査の成果などが盛り込まれた、当時としては最高水準の地図とされる。地図は幕府の命により天文方の高橋景保らが編さん。その銅版刷りを手がけたのが田善だった。須賀川出身の画人が、国家プロジェクトの一翼を担ったのだ。

 銅版画の大成者

 田善は遠近法をはじめ西洋絵画の技法を取り入れた洋風画家、「銅版画の大成者」として歴史にその名を刻んだ。しかし、田善の手による画論や自伝といった文章は確認されておらず、直接その考えに触れる手だてはない。その点、同時代の洋風画家で、銅版画家の先駆けでもある司馬江漢(1747~1818年)とは対照的である。地元の須賀川市立博物館学芸員、宮沢里奈さん(32)は「田善は自らを語らず、謎が多いだけに引かれる」と言う。

 同博物館によると、田善の作品は銅版画が約90点、油彩画などが20点程度と、全体で100点強が現存。このうち銅版画は同博物館にほぼそろっているという。「先人の努力が当館のコレクションにつながっている」と宮沢さん。「『(田善の)名前は知っているけれど...』という人が多い。より知ってもらえるよう活動したい」と力を込める。田善に詳しい元同博物館長の安藤清美さん(68)は「田善は全国に誇れる須賀川の先駆者。もっと評価されてもいい」と語る。地元関係者の田善推しは強く、熱い。

 定信に取り立てられ

 亜欧堂田善―本名永田善吉は、宿場町として栄えた白河藩領須賀川の染物屋の次男として生まれた。家業もそこそこに絵を描いていた一介の町絵師だったという。ところが1794(寛政6)年、運命が大きく動き出す。前年に老中職を辞した藩主、松平定信(1758~1829年)が領内巡視で須賀川を訪れた際、田善筆の屏風(びょうぶ)に感心し田善を取り立て、自身が抱えていた画家谷文晁の弟子にしたのだ。田善47歳の出来事である。

 鎖国体制下とはいっても、欧米やロシアの東洋進出はいやが応でも日本人の目を外に向けさせた。海外は興味の対象であるとともに、脅威でもあった。そこで名伯楽が田善に託したのは、世界を知るための緻密で正確な地図の製作、そしてそれを実現する銅版画技術の習得だった。

 田善は「新訂万国全図」で定信の期待に応えてみせた。安藤さんは田善の堂号「亜欧堂」について、地図を見た定信が「アジア、欧州の両大陸を眼前に見るかのようだ」として与えたと言い、落款の種類も豊富なことから「よっぽど気に入っていたんでしょうね」と笑う。田善はこのほか、日本初の銅版画による人体解剖図となる「医範提綱内象銅版図」を製作し、蘭学者に称賛されている。

 田善の仕事があまりにも優れていたためか「江漢とオランダに密航し技術を学んだ」「長崎に遊学した」などといった説もあった。実際のところは定信周辺の蘭学者の助力、西洋銅版画の模刻で腕を磨いたとの見方が強い。先学の江漢に師事したところ、覚えが悪いなどとして破門されたが、その活躍ぶりに江漢もついに「田善は日本に生まれた和蘭(オランダ)人だ」と認めるに至った、という逸話もある。

 定信は江漢について「銅版鏤刻(るこく)、蠻製(ばんせい)にあれど、我國にてなすものなし、司馬江漢といふものはじめて製すれども細密ならず、ことにいといたう秘してわれのみなすてふ事をおふなり」(「退閑雑記」)と、日本で初めて銅版画を成したが、未熟な上技術を独り占めしていると批判した。定信は「江漢に頼らずとも田善を育ててみせる」と意気込んだことだろう。それだけに、後に江漢が田善を認めたというエピソードは印象深い。

 「定信の下で環境が恵まれていたとしても、まねできることではない」と宮沢さん。田善が「新訂万国全図」をはじめ実用銅版画で示した仕事は紛れもなく偉業である。そこに当時60代という年齢を加味すれば驚異だ。だが、ここでの田善はあくまで一人の技術者だった。本をただせば田善は絵師。銅版画修業は同時に、芸術家亜欧堂田善を育んでいた。(高野裕樹)