【古関裕而生誕110年】原点は母の出身地・川俣 音楽漬けの日々過ごす

 
古関は川俣町に暮らしていた際、このオルガンなどで音楽にのめり込んでいた

 「好きな音楽に打ち込むには最適な環境だったんだろうな」。父光二さんが古関裕而のいとこに当たる川俣町のムトウ文具店社長武藤昭一さん(75)は、今でも古関メロディーが耳に残る一人。古関が川俣の地で音楽の基礎を築いたことを誇りに思っている。

 古関は10代最後の2年間を川俣町で過ごした。当時の同町は、絹織物産業の最盛期。街中には機織り機独特のリズムが鳴り響いていた。各地から集う商人がさまざまな文化を持ち寄ってつくられた街の景色は、音楽好きな古関の琴線に触れたとみられる。

 古関は、叔父の武藤茂平さんが頭取を務める川俣銀行に勤務。ただ、銀行の仕事はほとんど任されず、勤務中に音楽の勉強をしたり、火鉢でリズムをたたいたりしていたという。古関が暮らした茂平さん方には、古関のいとこの木村ヤスさんのオルガンがあり、古関はこのオルガンや川俣小音楽室のピアノを弾くなど、音楽漬けの日々を過ごした。

 音楽のほかにも、カメラやダンスが好きな一面もあったという。「実は家族の中では(古関裕而が)どういう人か、話にならなかったんです」と昭一さんが言うように、親戚からは「変わった人」とのイメージだったという。

 古関の転機は1929(昭和4)年。同町で作曲した「竹取物語」が英国の国際コンクールで入選し、金子さんと文通が始まった。その後、金子さんと結婚して町を離れた。

 古関が作曲に使ったとされる木村さんのオルガンは今、木村さんの孫の重幸さん(69)が保管している。重幸さんは「古関の音楽は誰もが一度は聴いたことがあるのでは」と語り「川俣にも古関にちなんだ音楽イベントがあればな」と、作曲家古関裕而の原点の地に古関メロディーが響くことを夢見る。

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 川俣町と古関裕而 古関の母ヒサさんの出身地。福島商高を卒業後、2年間、銀行員として生活した。町を離れた後もたびたび訪れ、川俣中の校歌などを作曲した。古関が手掛けた川俣町民の歌は毎日正午に、中央公園からメロディーが流れている。