【古関裕而生誕110年】音楽で国民に『夢』与える 戦後復興と歩んだ曲

 
沼尻軽便鉄道のディーゼル機関車と客車の前に、朝ドラ放映記念の横断幕が掲げられた=7月、猪苗代町「緑の村」

 古関裕而は多くの戦時歌謡を手掛けたが、戦後に責任を問われることはなかった。しかし、自身の曲が前線の兵士やその家族らに歌われたことを「何とも言えない複雑な気持ち」と周囲に語っており、償いの気持ちを抱いていたようだ。

 古関裕而を長年研究する斎藤秀隆氏(77)=福島市=は「不本意な戦時歌謡を強いられた古関も戦争の犠牲者である」と指摘する。加えて「古関は常に平和を愛する心を持ち続けた。その心が戦後、一気にほとばしり、国民に夢を与える曲を作った」とたたえた。

 戦後の復興とともに歩んだ古関メロディーをみていく。1945(昭和20)年10月に連絡を受け、戦後初のラジオドラマ「山から来た男」の音楽を担当。複数のラジオドラマにも関わり、47年のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」で評価を高めた。

 48年には夏の甲子園でおなじみの「栄冠は君に輝く」を作り、若者の夢をかき立てた。49年には大ヒットした名曲「長崎の鐘」で多くの戦争犠牲者を慰め、励ました。斎藤氏は「古関は『長崎の鐘』で忌まわしい戦争の呪縛から解放されたのではないか」とみる。

 「汽車の窓からハンケチ振れば~」の歌い出しで始まる古関メロディーの代表格「高原列車は行く」は54年に発表された。作詞した丘灯至夫(小野町出身)がモデルにしたのは、大正から昭和40年代にかけて猪苗代町で運行していた「沼尻軽便鉄道」である。

 同町の観光地「緑の村」にディーゼル機関車と客車が残る。7月には古関がモデルの朝ドラ「エール」の来春放映を祝し、巨大な横断幕が掲げられた。「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」の鈴木清孝さん(72)=同町=は「猪苗代ゆかりの曲を歌い継ぎ、町を盛り上げたい」と語った。

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 「高原列車は行く」の裏話 作詞家の丘灯至夫は湯治のため家族と乗った沼尻軽便鉄道をイメージして詞を書いた。ところが古関裕而は欧州の高原列車を思わせる曲想で作曲した。丘はイメージとかけ離れており仰天したが、聴くうちに「この曲以外にない」と確信したという。