【古関裕而生誕110年】母校・福島商高への思い 校歌と青春歌「作曲」

 
「福商青春歌」の歌碑を見つめる引地さん。古関が母校のために作曲した=福島市の福島商高

 「古関先生直筆の文字が刻まれている。人間味が出ていますね」

 福島商高の校門を入った所に立つ歌碑を見て、同窓会長の引地洲夫さん(79)は話す。歌碑に刻まれているのは「福商青春歌」の歌詞。古関裕而が母校のために作曲した「古関メロディー」の一つだ。

 「これまでいろいろな曲が石に刻まれてきたが、福商青春歌ほどうれしい歌碑はない」。歌碑ができた時、古関はそう喜んだという。生涯で5000曲近くを作曲したが、母校への思い入れは特別だったようだ。

 今年、創立122年の同校。その長い歴史の中には不幸な出来事もあった。1948(昭和23)年4月、校舎のほとんどを焼失する火災が発生。新学期が始まる直前の出来事で、5月に予定されていた創立50周年記念行事が取りやめになるなど、影響が大きかった。

 母校の危機に古関は立ち上がる。資金集めのため、当時の人気ラジオ番組「二十の扉」の福島公演と「コロムビア音楽会」を企画。出演者の手配など、母校の復興に奔走した。

 同校校歌も古関が作曲している。引地さんが3年生だった57年10月、創立60周年の記念式典でその校歌を披露する予定だったが、古関は用意した来賓席に時間になっても現れなかった。ところが「同窓生、起立」の号令で同窓生が立ち上がると、その中に古関もいた。

 「『私は来賓でもなんでもない。同窓生なんだ』と言って、同窓生の席に座っていたそうですよ」。引地さんは、古関の人柄や母校への思いが伝わるエピソードを思い出す。

 今も多くの生徒や関係者に歌い継がれる校歌と青春歌。それには青春時代を過ごし、恩師との出会いを経て音楽家としての道を歩み出す母校への古関の強い思いが隠れている。

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 福島商と古関メロディー 古関裕而は1922(大正11)年に福島商業学校(現福島商高)に入学。在学中は勉強や音楽、作曲に夢中になり、28(昭和3)年に卒業した。生徒たちに古関の楽曲に触れてもらおうと現在は3年に1度、「福商 古関裕而音楽祭」が開かれている。