【第1部・雪村周継<1>】着想奇抜、謎多き画僧

 
雪村庵を訪ねると、庵に寄り添うようにたたずむ枝垂れ桜は見頃を迎えていた。花びらと裏手の竹林、青空のコントラストが見事だった=12日午前、郡山市西田町

 人は芸術家の伝記に、その作品が生み出されるに足る物語を求める。本県もまた、彼らの物語の土壌となった地だ。彼らが過ごしたであろう土地を訪ね、物語の破片を拾い集めよう。それは、本県に足跡を残した芸術家たちの「列伝」となるだろう。第1部は室町時代の画僧、雪村周継(せっそんしゅうけい)だ。

 「狂逸」「奇思」―。後世は雪村の絵をこう評した。作品は雄弁に語るものの、作者は寡黙だ。伝記的資料に乏しいのだ。先学の仕事をひもとくと、雪村は15世紀の末、常陸で誕生。この地で画僧となり、会津を訪ね、小田原・鎌倉を遍歴。再び奥州に戻り、最晩年は三春に隠棲(いんせい)、80歳余りで没したとされる。

 佐竹一族から廃嫡

 雪村生誕の地とされる茨城県常陸大宮市に、史跡「雪村筆洗いの池」がある。雪村は、この地を治めた戦国大名佐竹氏の一族に生まれたものの廃嫡され、禅僧となった。一説には、父親が側室の子を愛したためともいわれる。

 地元の雪村顕彰会長を務める冨山章一さん(72)と池の端で落ち合う。なんと、冨山さんが幕末の水戸藩士加藤寛斎による地誌「常陸国(ひたちのくに)北郡里程間数之記(きたぐんりていけんすうのき)」を授けてくれた。里人による雪村の伝承が見える重要な文献だ。文献にずばり現れる、「雪村屋敷」跡とおぼしき場所を案内してもらった。池から西に1キロ弱の山林だ。薄暗い山道を登ると、林の奥に平たい場所を発見。屋敷跡らしい。

 さらにこの場所は、天保年間に廃寺となった福聚(ふくじゅう)寺跡でもあったという。冨山さんは、この寺に佐竹本家筋の「相当高位な女性」が関わっているとみる。点と点が線になっていく―。「雪村が誰の子だったのか。彼女の周辺から出自を探れるかもしれない」。冨山さんの探求は続く。

 子の涙、止めた絵

 常陸太田市に、雪村が修行したとされる正宗(しょうじゅう)寺、耕山(こうざん)寺がある。耕山寺には「うちわに絵を描いていた」「子どもに絵を描いて見せたら泣きやんだ」といった逸話がある。正宗寺には雪村最初期の作品「滝見観音図」が現存。「華厳経」にある、善財童子が観音に教えを乞う場面を描いた「禅機図」だ。正宗寺の末寺・弘願(こうがん)寺所蔵の図を、雪村流に写した作品という。

 正宗寺住職の木村恵司さん(40)は「心を縛るのを善しとしない」とする禅宗の考え方から、雪村作品に「固定観念や我、執着の打破」を見る。作品の芸術性を肯定しつつ、僧侶として「画題が持つメッセージも受け取ってほしい」と話す。境内には、2本の柏槙(びゃくしん)がたたずむ。推定樹齢650年。「柏槙はゆっくりと成長する。私たちの在り方と重なります」。木村さんの言葉に「大器晩成」の4字と、老境に入ってもなお歩みを止めなかった画僧の姿が浮かんだ。
 郡山市西田町にある「雪村庵」。雪村が最晩年を過ごした三春の地を先回りした。満開の枝垂れ桜をくぐり、庵(いおり)の前で手を合わせる。またここに戻ってこよう。見える景色も変わっているはずだ。(高野裕樹)

雪村周継