【古関裕而生誕110年】戦時下の作曲活動 『望郷の念』...旋律に込める

 
東京から疎開し、終戦前後に古関一家が暮らした福島市飯坂町の民家。築100年ほどのため一部は改築しているが、居間にある神棚など内装や柱の多くは当時のまま残っている。右下は二階堂さん

 1930(昭和5)年に福島市の実家で新婚生活を始めた古関裕而と金子(きんこ)は同年9月に上京、日本コロムビア専属の作曲家となった。

 日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた37年7月、古関夫婦は中国に金子の兄妹を訪ね、帰路に日露戦争の激戦地・旅順に立ち寄った。古関の自伝では「領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさに感極まった」と振り返る。

 戦時下の作曲活動をみる。37年は旅順での強烈な印象から「勝ってくるぞと勇ましく~」のフレーズで知られる「露営の歌」を作曲。40年は軍関係者が気に入らないとのことで7回の手直しでやっと許可が出た「暁に祈る」、43年は若き航空士を取材して「若鷲の歌」を発表した。

 これらは軍委嘱の曲である「軍歌」ではなく、映画主題歌や新聞社が募った「戦時歌謡」に区分される。軍国主義の時代、作曲家も国に尽くすことは当然だった。古関は自伝で「兵士たちの何人が無事帰れるのかと思うと、万感胸に迫り、絶句して、ただ涙があふれた」と悲壮な思いを吐露する。

 古関の戦時歌謡は大衆に支持された。戦意高揚のマーチではなく、悲壮感や望郷の念が詰まった哀愁の旋律が心を打ったからとされる。

 終戦間際の45年6月、東京にいた古関は、娘2人を福島市の実家に疎開させた。7月には同市飯坂町の二階堂家に疎開先を変え、古関も8月から11月まで一緒に暮らした。この家は現存しており、当時6歳だった二階堂剛さん(80)は「古関一家が仲良く歌を歌う光景を覚えている」と語った。古関は帰京直前の45年11月、現在の飯坂小の校歌を作曲している。二階堂さんは「今も校歌は忘れない。古関一家が懐かしい」と目を細めた。古関が平和の願いを込めたであろう校歌は今も子どもたちに歌い継がれている。

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 古関一家の飯坂疎開 古関の知人の実家であった当時の二階堂魚店の奥座敷で1945年7~11月に暮らした。金子は7月中旬から腸チフスにかかり、8月中旬まで福島市内の病院に入院。古関は8月から飯坂生活を始め、地元の人々に音楽を指導した。飯坂小の新校歌発表会では金子が歌い、長女がピアノ伴奏した。