【風評の深層・処理水の行方】農業者は願う...納得の「選択肢」

 
観光客を受け入れる準備を進める菊田さん。「原発が廃炉にならないと、風評被害はどこまでも付いて回る」と話す

 「二者択一の考え方には反対だ。原発事故から10年目でようやく農業復興の道筋が見通せる状況になった」。4月13日の福島市。東京電力福島第1原発で増え続ける放射性物質トリチウムを含む処理水に関する意見聴取会で、JA福島中央会の菅野孝志会長(68)は、海洋と大気(水蒸気)への放出に絞った政府小委員会の報告書に疑問を呈した。処理水の問題は漁業者だけではなく、農家にも新たな風評の火種としてくすぶり始めている。

 第1原発は、浜通りの大熊、双葉両町にまたがる位置にある。政府が示す放出に伴う放射性物質の拡散の試算では、本県の内陸部への影響はよく分からないというのが実情だ。しかし、JA福島中央会は「処理水を処分すれば、その方法がどのようなものであれ、本県全体に影響するのではないか」という懸念を捨て切れないでいる。

 「廃炉に向け、何らかの処理水の取り扱いをしなければならない必要性は理解できないものではない。しかし、農業者の懸念は安全性の担保と新たな風評被害の発生防止対策だ」。この発言は、農業者もこの問題の当事者であることを強く訴える意味を持っていた。

 多くの生産者が納得できる道筋はないのか―。菅野会長は、海洋・大気以外の「第3の選択肢」を提示した。「今後、おおむね10年間でトリチウムの分離・処理技術の研究開発を進め、国民全てが認める処理方針を確立することを望む」

 「原発が廃炉にならないと風評被害はどこまでも付いて回る」。福島市で果樹園を営む菊田透さん(68)は、赤々と実ったサクランボを見ながらつぶやいた。

 2ヘクタールの果樹園でリンゴやモモ、サクランボを栽培。2代目の園主として、原発事故でリンゴ狩りなどの観光客が半分以下に激減した後も、家族を鼓舞して家業を守り抜いてきた。

 処理水を巡り、国や東電は、第1原発で保管するタンクの敷地に限界があると説明する。タンクが林立するニュースを見るたび、「一番の目的は廃炉の完了。廃炉を進めるには、処理水を処分した方がいいのかもしれない」とも考える。

 しかし、風評被害は抑えていかなければならない。「やはり、処分と並行しながらトリチウムを分離して回収する技術開発も進めていってほしい」と望む。

 果樹園では、今シーズンも観光客を受け入れる準備が着々と進んでいた。作業の手を休めることなく「悩ましい問題だが、いずれはトリチウムと闘わなければならない。廃炉という命題とどう折り合いをつけるか。国や東電はしっかり対策を示さなければならないはずだ」と話した。

 『第3の選択肢』模索...三つの対策を求める声

 東京電力福島第1原発で増え続ける放射性物質トリチウムを含む処理水を巡り、処分による風評被害を少なくするための「第3の選択肢」を模索する動きがある。さまざまな団体が意見表明しているが、大きく分けると〈1〉トリチウムを水から分離する技術の開発〈2〉原発敷地外での保管〈3〉どこか他の場所への移送―の三つの対策を求める声がある。課題を探った。

 分離技術】実用化に時間と経費

 トリチウムを水から分離する技術を巡っては、2018年、近畿大が開発に成功したと発表して注目を集めた。

 同大は、超微細な穴がたくさん空いた「多孔質体」のフィルターに注目した。気体にしたトリチウム水をフィルターに通したところ、実験レベルでかなりの高確率で通常の水と分離できることを確認した。第1原発での使用を視野に、実用化への検討を進める考えを示していた。

 同大原子力研究所の山西弘城教授(57)=環境放射線=に状況を聞いたところ、より大量のトリチウムの処理を目指すため、現在はフィルターではなく、顆粒(かりゅう)状の「多孔質体」を使った分離に着手しているという。ただ「実用化にはまだまだ多くのステップを経なければならない。時間も経費も必要だ」と指摘する。

 また、山西教授は「分離に成功してもコストはどうなのか、トリチウムや吸着に使った素材をどう処分するかなどの議論が必要」と語った。

 【原発敷地外保管】経産省「土地転用難しい」

 国や東京電力は、処理水を保管する地上タンクが増え続ければ原発構内の敷地が足りなくなり、廃炉作業に支障が出ると主張する。このため、政府の小委員会では原発の敷地を拡張して新たにタンクを造るスペースを確保することに議論が及んだ。

 原発の周辺には、除染で出た土壌などを運び込む「中間貯蔵施設」の建設予定地が広がっている。小委員会の委員からは「土地の使用目的を変えれば、原発敷地を広げることができるのでは」と指摘があった。

 これに対し、経済産業省は「地権者とは、環境省が中間貯蔵施設の整備を目的に交渉している」と述べ、タンク建設の用地として転用することは難しい―との考えを示している。

 【別施設への移送】相当な調整必要

 原発敷地内や周辺でタンクの用地が確保できないならば、敷地外の別の施設に処理水を移送し、長期保管することはできないのか。

 移送を可能にするためには、新たな保管施設の確保に加え、安全な輸送対策を講じる必要がある。資源エネルギー庁によると、パイプラインや車両、船を使う手段が想定されるという。

 ただ、放射性物質を取り扱うため、原子炉等規制法に基づく対策が必要だ。パイプラインには、周囲にフェンスなどの防護施設を設けることが求められる。車両や船を使う際は、容量が最大4トンの専用容器を使って運ばなければならない。よって、小委は「(移送先や移送ルートの)自治体などと相当な調整と時間が必要」と指摘している。

 放出量ごとに影響想定 大気、拡散の試算なし

 東京電力福島第1原発で増え続ける放射性物質トリチウムを含む処理水を処分した場合、どのような影響が想定されているのだろうか。政府の小委員会が提示した海洋放出と大気放出、それぞれの処分の手順はの通りだ。処分の前には、トリチウム以外の放射性物質をあらかじめ放出の基準値未満にしておくことが前提になっている。

 東電の処分案では、海洋放出の場合には、処理水を海水で薄めることで、トリチウム濃度を国の基準(1リットル当たり6万ベクレル)から大きく下回る1リットル当たり1500ベクレル未満とする。東電は、年間に放出するトリチウムの量に応じ、4パターンの拡散シミュレーションを公表した。

 トリチウムは原発事故前から、年間22兆ベクレルを放出の管理目標値に定めて海洋放出されており、2010年の実績は約2.2兆ベクレルだった。仮に事故前の管理目標値と同じ量を放出した場合、海水中のトリチウム濃度が1リットル当たり1~10ベクレルとなる範囲は、第1原発周辺にとどまる。放出量を約5倍の年間100兆ベクレルとすると、北側は南相馬市と浪江町の境界付近、南側は楢葉町と広野町の境界付近まで広がる試算になっている。

 大気放出については、処理水をボイラーで加熱して気体にした後に、空気で薄めて排気筒から大気中に排出する方針だ。ただ、東電は、気象条件が複雑に絡み合うことなどを理由にして、大気放出したトリチウムがどのように拡散していくかを試算していない。本県では原発事故後、放射性物質が風に乗って拡散した経緯があり、農業関係団体などから影響が分からないことへの疑問の声が上がっている。

 トリチウムの放出による被ばく線量については、経済産業省が推計している。保管中の処理水に含まれる放射性物質約860兆ベクレルを1年間で全て放出した場合を想定した場合、最大でも一般の人が通常生活で自然に被ばくする年間線量(約2100マイクロシーベルト)の約1750分の1にとどまり、最低では約3万分の1の水準にとどまるとされる。