【風評の深層・豊かな大地】一夜で暴落した「牛肉」...戻らぬ値

 
牛の体を丁寧に洗う五十嵐さん。「福島県産は安い、という前提を変えてほしい」と訴える

 たった1日で1キロ当たりの販売価格が2000円超から1000円弱に―。喜多方市で福島会津牛を育てる五十嵐ファーム社長の五十嵐貞雄さん(44)が風評被害を実感したのは、東京電力福島第1原発事故から10カ月ほどたってからのことだった。

 2012(平成24)年1月、五十嵐さんは東京の市場に牛肉を売りに出掛けた。初日の販売価格は1キロ2300~2400円ほど。福島県産への抵抗感もあるのか、原発事故前より数百円安かったが「この程度なら、これからの頑張り次第で挽回できる」と手応えも感じた。

 しかし翌朝、県産牛肉の放射性物質の問題がテレビで報じられると状況が一変。その日の競りでは、1キロ1000円を切った。喜多方市は東京電力福島第1原発から約100キロ離れており、仙台市とほぼ同じ。それでも値崩れは止まらなかった。

 体重500キロまで育てた肉牛が50万円でしか売れなければ、生後10カ月の子牛を買った値段と変わらない。約2年育てた間の餌代や管理費の分は赤字になる。五十嵐さんは「たった1頭、基準値を超えただけでも県産牛肉が全て危険だとレッテルを貼られる」と、風評被害の恐ろしさを感じた。

 その後は、県内の畜産農家で全頭検査が始まった。餌とする稲わらや牧草の放射性物質の量も測るようになった。五十嵐ファームは原発から離れているため、牛肉や稲わらが基準値を超える心配はあまりなかったが、牧草は別だった。牧草を集める際に土ぼこりも集めてしまうことで、高い放射性物質が検出される可能性が指摘されていたため、細心の注意を払い、牛が取り込まないようにした。

 検査の徹底に加え、動画サイトや会員制交流サイト(SNS)を活用したPR活動が功を奏してか、県産牛の販売価格は回復傾向が続いた。しかし、数年前に他県より数百円安い段階に達してからは、足踏み状態となっている。1キロ数百円の差は、1頭では数十万円の差になり、畜産農家にとって大きな痛手だ。

 価格が上がらないのは、手に取ってもらおうと安い価格で販売していた時期があり、「福島県産は安い」とのイメージが消費者や取引業者に定着したことが足かせになっていると、しばらくは考えていた。

 しかしある時、酒に酔った取引業者に「福島県の農家は(肉牛の販売価格が)少しくらい安くても、賠償金がもらえるからいいんでしょ」と言われ、問題の根深さを実感した。

 どんなに努力をしても伝わらず、正当に評価されず、数百円の壁を打ち破れない。「価格を上げるために品質を上げろといわれても、これ以上は苦しい。情報発信の仕方を見直す時期に来ているのではないか」

 「検出ゼロ」の基準解明 県農業総合センター・三浦吉則氏

 東京電力福島第1原発事故で、一度は大きく落ち込んだ県産農林水産物への信頼。県内の生産者らは、安全な農林水産物を生産し、風評を払拭(ふっしょく)しようと、生産段階で放射性物質の吸収を抑える対策に腐心してきた。流通前の対策の象徴ともいえるコメの全量全袋検査が抽出検査に移行する中、カリウムの散布をはじめとする生産段階の対策を的確に情報発信し、消費者らに幅広い理解を得ることが信頼の構築へ一層重要となる。

 「土中のカリウムの量が、作物の放射性セシウムの吸収抑制に大きく関与することを初期段階で明らかにできたことが、最大の成果だ」。原発事故後、土壌や作物に含まれる放射性セシウムの研究に関わってきた県農業総合センター放射能対策チーム総括の三浦吉則氏(58)はこう話す。

 原発事故後、農家にとっての最大の関心事は「自分の農地でコメをつくれるのか」ということだった。本県農業の将来を懸けた土壌調査が始まったのは、事故から半年後。ゼロからのスタートだった。

 1986(昭和61)年に発生したチェルノブイリ原発事故の被災地では、セシウム濃度の高い土地に作物を栽培しない方針を取った。本県で主力となる水稲の栽培もなく、前提条件が異なった。ユーラシア大陸の比較的単一の土壌と比べ、山や川の小地形が並び、水田も火山もある日本は土の種類が豊富で、それだけ必要な解析の手間も増える。

 震災前から土壌の研究を専門としてきた三浦氏だが、「どの場所でどんな種類の土を取ればいいのかすら分からない。場所の選定や調査方法、土壌の放射性物質を分析できる機関の確保など、全てが手探りだった」と当時の心境を語る。

 調査を始めた時は、土中の放射性セシウムが多ければ、必然的に作物にも多くのセシウムが移行するものと考えられていた。県は国の研究機関と連携し、調査開始から約1年間で当時の「警戒区域」や「計画的避難区域」を含む水田と畑地延べ2618地点の土壌を調査し、玄米や野菜に含まれる放射性セシウムとの因果関係を分析した。

 すると、土中のセシウムが高い場所で、必ずしも玄米に移行するセシウムが高いわけではないことが分かった。では何が要因か。土壌のほかの成分を分析すると、土中にカリウムを多く含む地点では、玄米への移行が抑えられていることが明らかになった。

 その後は、どのくらいの量のカリウムを散布すれば吸収抑制の効果が高まるかの研究が進められ、土壌100グラムに対し25ミリグラムのカリウムが含まれるように調整すればセシウムの吸収を抑制できる―という基準を導き出すことに成功した。苦心してつかんだ、農業を守る基準。カリウムを肥料として農地にまく対策は全県に広がり、放射性物質の検査で「検出ゼロ」を確保する大きな一歩となった。

 事故からまもなく10年となる今、研究の主軸は避難指示の解除で営農再開が進む浜通りに移る。「周囲により多くの放射性物質がある状況を想定する必要がある」と語る三浦氏。将来にわたり安全な農業を支えていくため「この技術であればあと10年、20年大丈夫という、長い目でみた技術を確立したい」と意気込む。

 「カリ卒」県内40市町村

 県内ではコメに放射性物質を移行させない重層的な対策が積み重ねられ、安全性が確認された市町村で、カリウムを追加散布しなくても問題なくなる「カリウムからの卒業(カリ卒)」が進む。2019年産では40市町村に及んでいる。

 カリ卒に至るまでには、次のような段階を踏む。〈1〉ある年に生産された全てのコメが、全袋検査で検出下限値(1キロ当たり25ベクレル)未満〈2〉その翌年、カリウムを散布しない水田を3カ所設ける「カリ卒試験」に臨む〈3〉カリウムを散布しなかった水田を含め、カリ卒試験の年に生産された全てのコメが検出下限値未満だった場合、カリウムの散布の必要がない―と判断される。

 カリ卒は、全量検査から抽出検査への移行とともに、本県のコメ政策の大きな転換に当たる。

 カリウムの散布量を減らしたり、なくしたりしても安全性が担保されることについての丁寧な説明が求められる。

 果樹の表皮切削/牧草にカリウム

 原発事故後の県内では、さまざまな農林水産物の生産段階で放射性物質対策が行われている。その努力が実り、野菜や果実、肉類、栽培ものの山菜やキノコなど、適切に管理されてきた農林水産物からはこの数年、食品の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが確認されていない。

 畑の土に十分なカリウムが含まれていることが多い野菜の生産では、コメのようにカリウムを散布することはほとんどなく、放射性物質が付着している可能性のある農業資材や敷きわらなどを使わないなどの管理を徹底している。リンゴやモモ、ナシなどの果実は原発事故後、樹木の洗浄や表皮を削る対策が行われてきた。土に含まれる放射性物質が果実に与える影響は少ないとみられ、現在は果実を土に付けないなど、通常の栽培管理を行いながら高品質化を図っている。

 肉牛の飼育では、餌となる牧草や飼料用米が放射性セシウムを吸収しないようカリウムを散布しているほか、水の管理や出荷前の放牧自粛などを行っている。また、県は毎年1回、肥育農家に立ち入り調査し、必要な対策が取られているかを確認している。

 一方、2015(平成27)年度の検査で基準値超えが確認された玄米は、14年に吸収抑制対策をせずに生産されたものだった。17年度には果実のクリで基準値を超えたが、やはり十分な栽培管理がされていなかったことが分かっている。