【相馬街道・全2回(2)】 交易で生活支えた先人

 
相馬藩の陣屋があったとされる飯舘村飯樋。全村避難が続き防犯パトロールの車が走る

 「塩の道」の名で親しまれる相馬街道をたどる旅は難所の阿武隈高地に差し掛かり、飯舘村八木沢の八木沢宿から出発した。

 かつての旅人は宿場があった八木沢峠で一息ついた。先人に倣い、県道原町川俣線北側の旧道沿いにある団子茶屋跡の民家前で足を止めた。

 敷地にある石碑が雪に埋まっていた。村は全村避難が続くが、民家からは家族だんらんの声が聞こえてくる。あるじである佐藤正一さん(68)が家族と一緒に法要のため避難先の南相馬市から戻っていた。「今も2年に1度くらいは塩の道をたどって訪ねて来る人がいる。茶屋はおばあさんが一人で営み、簡素な宿でもあったようだ」と教えてくれた。

 茶屋が廃業した後の今から70年ほど前、炭焼き業をしていた佐藤さんの先祖が移り住んできたという。「団子茶屋」は屋号として残り、佐藤さんは「団子茶屋の佐藤さん」として知られている。

 峠を下って多くの車が行き交う県道原町川俣線を横断し、舗装工事などで一部が途切れる旧街道を歩いた。江戸時代、相馬中村藩から二本松藩に運搬された海産物の種類は豊富だった。塩以外にも、船で北海道から運ばれてきたニシンやマス、現在の相馬市尾浜や南相馬市小高区に水揚げされたマグロやイワシなども運ばれた。

 昔は馬に塩俵や海産物を積んで歩いただろう。足を取られる雪道に当時の苦労が身に染みた。

 里山沿いを縫うように歩みを進め、同村関沢を通って飯樋(いいとい)宿に向かう。雪をかぶった黒い袋が目に入る。農地の表土などを削り取った除染土壌だ。付近の民家から生活の温かさは感じられない。かつてこの道を歩いた旅人には想像もできない光景だ。

 佐藤さんからもらった手書きの地図を頼りに進む中、村教委が設置した「塩の道」の案内板を発見した。飯樋宿の手前で、開けた水田地帯が見えてきた。

 戦国時代の1589(天正17)年、領土境をめぐって確執が続く伊達、相馬両家の最後の合戦がこの地で行われ、相馬家当主、相馬義胤(よしたね)が領地を奪い返したという。武者はどこから侵攻してきたのか。合戦風景を思い描いてみた。

 相馬藩が、政務を行う「陣屋」を置いた飯樋宿に入った。駐在した代官は現在の飯舘村、相馬市玉野、浪江町津島、葛尾村の一部を管轄したという。区割りされた町並みが当時を思わせる。陣屋を中心に、年貢収納所や馬市場、学問所が置かれ、ろう屋もあったようだ。現在は案内板がたたずむだけだ。

 近くにある善応寺を訪ねると、住職の草野周一さん(41)が「今でこそ人通りは少ないが、昔は往来が激しかったようだ」と話してくれた。江戸時代、街道はにぎわいを見せた。相馬中村藩はこの道を使って参勤交代の帰路に就く際、道中を8日間とみていたようだ。その移動の速さに驚く。

 比曽峠に向かい飯舘村から離れる。峠を越えて川俣町山木屋へ。長い下り坂を進むと、福島市と浪江町を結ぶ国道114号と合流した。昔は、この一帯にあった問屋で馬を休め、荷継ぎをした。川俣、福島側へと針路を取り、川芎(せんきゅう)分岐点で南下して上戸沢峠へ。二本松市東和地域を経由して二本松藩の中心部に入っていく。

 「はるかな時代から文化をもたらし、物資交流のために続いた道」と飯舘村史に相馬街道の記述がある。旧街道は明治時代まで活用された。交易を通して生活を支えた先人の息づかいが聞こえてくるようだ。

相馬街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 「(た)神社の神杉」=写真=は飯舘村比曽の水田地帯にある。1972(昭和47)年11月27日に村指定の天然記念物となり、「田の神様の杉」として地域住民から親しまれている。天へと真っすぐに伸びるご神木は高さがあり、遠くからでも目に入る。樹齢100年以上といわれている。

相馬街道

 川俣町山木屋の八坂神社写真。10月の祭礼では町指定無形民俗文化財の三匹獅子舞が奉納される。三匹獅子舞は江戸時代初めから続く伝統行事。道化、太鼓、笛、歌い手などで構成されており、地元の若者が上組、下組に分かれ、当番制で「太郎獅子」「次郎獅子」「雌獅子」の3匹の舞を演じる。同町山木屋を挙げての行事で、地区住民の誇りとなっている。

相馬街道

 二本松市太田にある道の駅ふくしま東和(電話0243・46・2113)で一番の人気メニューは「あだたら恋カレー」(税込み680円)=写真。安達太良山をかたどったご飯に、地元産の野菜をふんだんに使い、智恵子抄をもじった洋風七味「智恵こしょう」を振り掛けたカレー。絶妙な野菜の煮込み具合と後を引く少し辛めの味付けが特徴だ。同じルーを使った「チキンカツカレー」「ロースカツカレー」「エビフライカレー」(いずれも税込み960円)もうまい。

相馬街道