【エールのB面】戦時中の作曲活動 涙にじむ...ヒットの裏には悲しみ

 
「露営の歌」が国民に愛唱されるようになったことを記念し、作詞者藪内が住んでいた京都・嵐山に建立された記念碑。1938年夏の除幕式で、藪内と古関らで記念撮影した(福島市在住の藪内の長男五郎さん提供)

 再放送が続く朝ドラ「エール」だが、本編放送が再開されれば古関裕而がモデルの主人公・裕一の戦時中の作曲活動が描かれる予定だ。制作統括の土屋勝裕さんは「戦時中の葛藤や戦後の心情を掘り下げたい」と作品に込めた思いを語っている。人々の記憶に残る数々の戦時歌謡を作った古関の戦中の足跡をたどる。

 1937(昭和12)年の盧溝橋事件から日中戦争へ拡大すると、古関も戦時歌謡を作曲する立場になっていく。同年7月、古関夫婦は満州(現中国東北部)に妻金子(きんこ)の兄や妹を訪ねる旅行に出掛けた。帰路に日露戦争の激戦地・旅順に寄り、砲弾の跡が生々しく残る古戦場に立った。後に古関は自伝で「領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさに感極まった」と振り返っている。

 中国・大連から神戸へと戻る船中、古関はコロムビアから「急ぎの作曲があるから神戸で下船しないで門司(福岡県)から特急で上京されたい」との電報を受けた。下船後に見た新聞で「進軍の歌」の懸賞募集の結果が載っていた。記事では、第1席に選ばれた「進軍の歌」は陸軍戸山学校軍楽隊が作曲したことが報じられていた。古関は第2席に入った「露営の歌」の詩に心を動かされ、特急内で曲を書き上げ、金子と2人で歌っている。偶然にもコロムビアからの"急ぎの作曲"とは「露営の歌」の依頼だった。コロムビアの担当者は驚き、古関は「作曲家の第六感ですよ」(自伝)と答えている。

 「勝って来るぞと勇ましく~」の歌い出しで知られる「露営の歌」は古関の人生を変えた。当初は第1席の「進軍の歌」が大々的に宣伝されたが、大衆は哀調を帯びた「露営の歌」を支持し、未曽有の大ヒットとなった。レコードは戦前の流行歌の売り上げトップを記録し、出征兵士を見送る際に必ず歌われた。

 心境歌に託す

 「露営の歌」を作詞したのは後に福島民友新聞社で編集局長や論説委員長を務めた藪内(やぶうち)喜一郎(1905~86年)。藪内は奈良県出身で、作曲当時は京都市役所に勤務。読売新聞社記者を経て、53年から福島民友新聞社に出向した。64年に依願退社し、その後は参院選や衆院選に立候補した。川柳を愛した文化人で、県川柳連盟会長も務めた。

 藪内は福島民友編集局次長時代に紙面で「露営の歌」について記している。「来る日も来る日も京都の街に響きわたった。(中略)『自分の歌を全国民が歌っている。そして出征―』と思うと、得意になるどころか、体が引き締まる思いがした。ジーンと胸が熱くなり、涙がにじんできたのをはっきり覚えている。(中略)軍歌というよりも放浪生活を繰り返した自分の心境を歌に託したものだ」

 痛みへの共感

 古関の戦時歌謡の特徴として「戦意高揚を目的としたものではなく、他人の痛みを自分の痛みとして感じるヒューマニズム(人道主義)が流れている。それが哀愁を帯びたメロディーとなって人々の心を打った。別離の悲壮感や望郷の思い、詩を貫く厭戦(えんせん)観が理解された」(古関研究家の斎藤秀隆氏)と指摘される。このことを示す逸話が残る。

 古関は38年、中支派遣軍慰問団として中国・九江で開かれた軍楽隊の演奏会に出席し「露営の歌」の作曲家としてあいさつを求められた。古関は「兵士たちが無事に帰ることを肉親は祈っており、はたしてその中の何人が帰れるのかと思うと、万感胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなくなり、ただ涙があふれてきた」(自伝)と悲壮な思いを吐露する。古関の涙声を聞いた将兵も涙し、会場は感涙の合唱となった。

 古関作曲の「暁に祈る」は40年に発表された。愛する妻子や懐かしい故郷と別れ、戦場に赴く兵士たちの哀感を歌った曲だ。作詞は福島民友新聞社の元記者で福島市出身の作詞家野村俊夫、レコードに吹き込んだのは本宮市出身の歌手伊藤久男。若き伊藤の抜群の歌唱力が大衆の胸を打ち大ヒット。3人の知名度は一気に上がり「コロムビア三羽がらす」の評価を不動のものとした。

 背負い続ける

 当時は国民が戦時体制に組み込まれ始めた時期。ただ、野村は福島民友時代に培ったリベラリズムの気質から、戦時歌謡の作詞に消極的だった。古関は自伝で、「暁に祈る」の誕生エピソードとして「野村さんが歌詞を作って軍の関係者に聞かせると、気に入らぬということで、都合7回目にやっとOKが出た」と苦労したことを振り返っている。

 古関はその後、東南アジアに慰問団員として派遣されたほか、海軍航空隊の予科練習生を題材とした「若鷲の歌」など数々の戦時歌謡を作曲した。作曲家も国に尽くすことが当然だった時代。古関は自身の曲が戦場の兵士やその家族に歌われたことを「何ともいえない複雑な気持ちだった」と周囲に漏らし、終生償いの気持ちを抱き続けたという。

 疎開中も音楽身近に

 終戦間際の45年6月、東京にいた古関は娘2人を福島市新町の実家に疎開させた。7月には古関が南方慰問団の活動で知り合った福島市出身者の実家である同市飯坂町の旧「二階堂魚店」に疎開先を変えている。妻金子は7月、娘2人の様子を見ようと同市を訪れたが、その際に腸チフスにかかり8月10日ごろまで市内の病院に入院していた。

 古関も8月から11月ごろまで、東京での仕事がなかった際は飯坂で生活、地元の人々に音楽を指導した。終戦後、金子は二階堂家にピアノを持ち込み、歌唱の練習を行った。進駐軍の米兵約10人が縁側にたたずみ、金子の歌をじっと聞いていたこともあったという。古関は帰京前に現在の飯坂小の校歌を作曲している。

 疎開先の二階堂家は現存している。当時6歳だった二階堂剛さん(81)は古関一家が楽しげに歌を歌う光景を覚えている。終戦の玉音放送は自宅で聞いた。「近所の人もみんなわが家のラジオを聞きに来た。恐ろしい空襲警報がもうないと知って安心した。古関家の皆さんも一緒にいて同じ気持ちになったことでしょう」と振り返った。ちなみに古関は玉音放送を東京・新橋駅で聞いている。