【草野心平の詩(中)】平伏沼「月夜」 水辺に実る『奇妙な果実』

 
森の中にぽっかり現れた平伏沼。木の枝にぶら下がった丸い物体がモリアオガエルの卵塊

 森を甘く見ていた。平伏(へぶす)沼は、県道から林道へそれ10キロ弱先の山奥にあった。車で進めど進めど森の中である。日暮れが近い。焦り始めた頃ようやく着いた。

 草野心平が川内村の南西部にある平伏沼を初めて訪れたのは1953(昭和28)年9月2日。

 そもそも心平が川内村を初めて訪れた目的は、平伏沼探訪だった。きっかけは、49年2月1日付読売新聞に掲載された心平の随筆「背戸峨廊」。その中で心平は「カエルの詩人」らしく、モリアオガエルを見る機会がない―と記し、これに対し、川内村・長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルがすむ沼が村にあるので来てほしいと手紙を出したのだった。

 それから4年後、心平は53年8月29日から9月3日まで川内村に滞在し、平伏沼へは村をたつ前日訪れたらしい。車が少ない時代、心平は森をかき分け進んだのだろう。

 深い森...奥に沼

 現在、森は変わらず深いが、道は舗装され、沼の手前には駐車場もある。沼は、モリアオガエルの生息地として国の天然記念物に指定された名所で、自然観察会も開かれるという。しかし今年はコロナ禍で観察会は軒並み中止だそうだ。梅雨時はモリアオガエルの産卵期と重なるため、例年は見学者も多そうだが、今は人けがない。

 駐車場から沼へ約120メートル、静かな森の中を歩く。小雨が降り始めたが、頭上を木々が厚く覆っているため、雨音はしても、体は雨粒を感じない。ささやかな幸運を感謝していると、行く手にぽっかり空間が開けた。

 平伏沼の周りは、なんとも不思議な雰囲気が漂う。

 雨で少しけぶった沼は、そう大きくはない。枝を広げた広葉樹が水際を覆い、中央だけが、ほんのり明るい。聴こえるのは、かすかな雨音と、時折遠くで鳴くウグイスの声だけ。水面に広がる同心円に見とれた。

 ふと視線を上げると、沼にせり出した枝から下がる灰色の物体に気付いた。モリアオガエルが産み付けた卵塊だ。想像以上に大きい。大きめのメロンほどか。まさに奇妙な果実。よく見ると、方々にぶら下がっている。

 この世の光景ではない。何というか...神話の世界である。

 しかしカエルの姿は、目を凝らしても見つからなかった。

 辺りが暗くなり、慌てて山を下りた。そんな調子だから、後から気付いたのだが、沼のほとりには心平の歌碑がある。刻まれている歌は

 〈うまわるや森の蛙は阿武隈の平伏の沼べ水楢のかげ〉

 「うまわる」は「生まれて、増える」の意。情景を切り取りつつ、葉裏にひそむ森の蛙(かえる)たちの、たくましい生命力をたたえている。豊穣(ほうじょう)を意味する古い言葉からは「古事記」的な世界を連想する。やはり心平も、沼べで神話の舞台を見たのかな、などと我田引水し悦に入る。

 ただ、気になるのは、平伏沼について書いた心平の作品が、この歌以外に見当たらないことだ。なぜだろうと考えていると、一つ思い当たった。天山文庫の「十三夜の池」である。

 光景写した庭

 天山文庫は、建物も庭も村を挙げての勤労奉仕で建設された。このうち庭造りでは「心平先生が、庭の真ん中の石に腰掛け『それはここに植えっか』など、人々が持ち寄った草木の移植場所などを指示していた」と川内村の副村長、猪狩貢(みつぎ)さん(70)は振り返る。

 こうして整えられた庭の中で、十三夜の池は建物の真正面に配置された。そして「木々が大きくなっても、先生は伐採せず自然のままで置きたいと考えていた」と猪狩さんが話すように現在、池の周りは草木が生い茂り、森のようになっている。
 つまり心平は、平伏沼の光景を写し庭を造り、これで十分と、平伏沼の詩は詠まなかったのではないか...。まあ、それは強引だが、森の沼の光景が彼と共鳴したのは確かなことだろう。

 心平の詩「月夜」。〈空と沼と。/十日の月は二つ浮び。/そのセロファンの水底の。/もやもやの藻も透いてみえる。(後略)〉(表記はハルキ文庫「草野心平詩集」による)。平伏沼訪問前の作で、心平の中には以前から、月夜の沼のイメージがあったことが分かる。

 彼は、川内村を訪れ自身の心象風景と出合ってしまったのかなと思う。

平伏沼

 高校野球を応援、気さくな人柄

 川内村副村長の猪狩貢さんが、草野心平と出会ったのは、猪狩さんが村役場に就職した1968(昭和43)年。天山文庫の庭造りが行われていた。「庭に植える木は、心平先生が村民に呼び掛けて、山から持ってきてもらっていた。われわれ村の職員も、ヤマツツジを持って行ったりした。そんな(自分で直接人に頼む)ところが、先生の人柄でした」
 心平の野球好きを伝える逸話も多い。「村に滞在中の7、8月は高校野球の県大会を見に、いわきや郡山、福島に出掛けていた。多分母校の磐城高を応援してたのでしょう」
 村恒例の盆野球大会でも心平は必ず始球式に出て、試合も熱心に観戦したという。役場チームで投手だった猪狩さんは「私は左投げなので、先生から『ぎっちょ(左利き)頑張れ』と声を掛けられた」と振り返る。
 心平は川内のどこに引かれたのだろう。そう聞くと猪狩さんは「村民の人柄と自然だったと思います。村民は訪れた人に最初は遠慮します。しかし天山祭りや野球を通じ知った先生の人柄がとても気さくで、村民も近づきやすかった。それで互いに打ち解けたのでしょうね」と話していた。

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 平伏沼 川内村上川内の平伏山頂(842メートル)にある楕円(だえん)形の沼。面積12アール。自然のたまり水で水量は一定していない。6月下旬から7月上旬、モリアオガエルが沼べの樹上に多数の泡状の卵塊を懸け繁殖する。卵塊は昔「延命小袋」と称し珍重された。現在は平伏沼が、モリアオガエル繁殖地として国の天然記念物に指定されている。

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 アクセス 平伏沼へは、県道36号(小野富岡線)の子安川バス停から林道に入り10キロ弱。または同県道の平伏沼口バス停から林道に入り約6キロ。通行止めに注意。

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 モリアオガエル 森にすみ、樹上で集団産卵する。体色が周囲の木の葉と同じ緑色のため、識別が難しい。指の先端に吸盤があり、木の枝や葉に張り付き産卵する。

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 天山文庫 草野心平が川内村に贈った書籍類を収める施設。設立に際しては川端康成ら多くの文学者が発起人となり、詩人や作家、出版社も本を寄贈した。現在約3000冊を収蔵。本館の近くには酒樽(さかだる)を使い作った「第2文庫」「第3文庫」が立つ。名称は、心平が故郷の小川に開いた貸本屋と同じ名を付けた。月曜休館。問い合わせはかわうち草野心平記念館(電話0240・38・2076)へ。