【須賀川・可伸庵跡】<世の人の見付ぬ花や軒の栗>世俗避けた生き方共鳴

 
「大きなる栗の木陰」と「おくのほそ道」に記された可伸庵を模して造られた「可伸庵跡」で栗の木陰にたたずむ高久田さん(左)と根元さん

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)をたどる旅は、引き続き須賀川市である。なにしろ松尾芭蕉は、須賀川宿に1689(元禄2)年4月22日(陽暦6月9日)から同29日まで7泊しエピソードも多い。県内では計12泊したが、須賀川以外はすべて1泊。ちなみにこの旅で芭蕉が最も長く滞在したのはゴールの大垣で15泊。2位が黒羽13泊。須賀川は7番目だ。

 なぜ須賀川に1週間以上滞在したかというと、雨のためもあるが、もちろん楽しかったからである。

 曽良の「日記」に記された須賀川滞在、特に前半の記述からは、芭蕉たちの愉快な表情が浮かび上がってくる。

 そばでもてなし

 初日は、前回紹介した相楽(さがら)等躬(とうきゅう)宅での三吟歌仙。2日目は夕方、可伸(かしん)という人を訪ね、帰りに寺や八幡神社を参拝。3日目は等躬宅の田植え。午後から可伸の住む庵(いおり)で俳諧の会が開かれ、祐碩(ゆうせき)(吉田等雲)という地元の俳人のもてなしで、そば切りを食べた(意訳)―とある。

 俳諧ざんまいである。合間に寺社参りと会席料理も満喫している。楽しくないわけがない。

 ちなみに「そば切り」は麺状のそば。麺への加工に手間の掛かるそば粉は、元々そば団子、そばがきとして食べられ、そば切りが誕生したのは江戸時代初期。つまり芭蕉の頃、そば切りは流行の先端だったらしい。須賀川市芭蕉記念館の高橋亜純さんは「等躬たちは、各地に旅した事情通の商人なので『ハレの日』のもてなしにそば切りを出したのも納得できる。それだけ手間暇掛け芭蕉との時間を大切にしたのでしょう」と言う。

 ただ、芭蕉にとっての「楽しさ」は、単純な享楽ではない。等躬らとの俳諧では、知的な興奮を感じただろう。さらに、2日連続で訪れた可伸という人物は、芭蕉に大きな共感をもたらした。「ほそ道」には、この出会いが須賀川での中心的なエピソードとして記されている。

 「須賀川宿の隅に、大きな栗の木陰に庵を結び、世俗を避けて住む僧がいる(可伸のこと)。西行法師の歌にある、栃(とち)の実を拾う深山の生活もこんな具合だろうかと、静かな生活に共感して、持っていた懐紙に書き付けた。『栗という字は、西の木と書き、西方浄土に縁があるというので、行基菩薩(ぼさつ)(奈良時代の勧進僧)が一生頼りにして、つえにも柱にもこの木をお用いになったとか』

〈世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗〉」世間の人々の、目にとどめることもない簡素な花よ。さながら庵の軒のその栗の花のように、閑寂なあなたの生活である―の意(句の解釈は今栄蔵「芭蕉文集」による)。

 可伸は俗名矢内(梁井)弥三郎。俳号栗斎(りっさい)。世俗を避けて隠せいする僧侶だ。人々の笑い声と同時に、ひっそりとした人生の息遣いが聞こえる。そんな須賀川宿の懐の深さが、芭蕉を引き付けたようにも思える。

 みんな知る木に

 こんな芭蕉たちの足取りを同市のまちづくり団体NPOチャチャチャ21の高久田稔理事長(80)と根元信二さん(77)に案内していただいた。

 芭蕉たちにならい同市八幡町の大黒亭でそばを食べた後、八幡神社のあった市役所を横目に南へ数百メートル、本町にある「可伸庵跡」へと向かった。

 ここも等躬の屋敷跡だという細い路地の中ほど。2LDKくらいの広さに、枝を広げた栗の木と芭蕉の句碑などがある。「本当は別の場所だったらしい」と高久田さんは言うが、なかなかの趣だ。

 高久田さんと根元さんは、この近所で生まれ育った幼なじみで、案内の合間も息の合った掛け合いを演じる。そんな姿が、芭蕉と曽良、あるいは芭蕉と等躬に重なって見えた。

 さて、「軒の栗」のエピソードには後日談がある。等躬が編んだ俳諧撰集「伊達衣」に可伸が寄せた一文によると、軒の栗は実は食料にしていたのだが、芭蕉が句にしたことで、多くの人に知られ愛されるようになってしまった(「道標」参照)。漂うユーモアは、人のいい須賀川ならではのように思える。(参考・頴原退蔵、尾形仂訳注「おくのほそ道」)

須賀川・可伸庵跡

 【 道標 】芭蕉効果で俳人が続々

 松尾芭蕉が8日間の須賀川滞在中、相楽(さがら)等躬(とうきゅう)ら地元の俳人たちと交流したことは、この地と人々に大きな影響を及ぼしました。
 芭蕉から「軒の栗」の句でたたえられた可伸は、等躬の第2撰集「伊達衣」に次のように寄せています。
「予が軒の栗は更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰(くらふ)のみなりしを、いにし夏芭蕉のみちのく行脚の折から一句残せしより、人々愛(めづ)る事と成侍りぬ。
梅が香を今朝はかすらん軒の栗可伸」
 ここから芭蕉の影響力を推し量ることができます。
 等躬の場合も、著作に大きな影響が見受けられます。その一つが「陸奥名所寄(よせ)」(別名「蝦夷文段抄」)。宝永2(1705)年出版と推定される陸奥の名所・歌枕便覧です。名所や歌枕の所在地と考証、古歌529首などを網羅していますが、所載された地名は曽良随行日記「名勝備忘録」の「陸奥」の部の46カ所とほとんど一致しています。
 私は、滞在時の芭蕉に等躬があれこれ説明したことを基にまとめたのが、この作品だと考えています。芭蕉は、こんなもてなしをされたので、門人でもない等躬の所に7泊もしたのではないでしょうか。
 また、等躬の第1撰集「葱摺(しのぶずり)」(乾・坤2巻)は、元禄元(1688)年すでに稿が成っていたのに、翌年の芭蕉来訪を得て「風流の初や―」の三吟歌仙や、曽良の「旅衣早苗に―」、等躬の「茨やうをまた習ひけりかつみ草」の「三つ物」などを付けています。まさに芭蕉来須の大きな影響です。
 さらに、芭蕉の来訪後、須賀川を訪れる俳人が多くなったことが挙げられます。蕉門十哲の一人、各務(かがみ)支考(しこう)。伊賀上野出身で神田に住んだ天野桃隣(とうりん)。八十村路通(やそむらろつう)は、記録はないのですが、須賀川市に〈鶯に口きかせけり梅の花〉の本人直筆の短冊が残っています。(須賀川市立博物館協議会長・西間木俊夫さん)