【 出羽三山 】<涼しさやほの三か月の羽黒山> 天空の世界へ一歩一歩

 
羽黒山に近いスキー場から望む月山(中央)。左が虚空蔵岳=2019年11月4日、山形県鶴岡市

 松尾芭蕉と河合曽良が、最上川を下るため船に乗り込んだ本合海(もとあいかい)(山形県新庄市。地名は以下山形県)周辺を地図で見ると、この川の「形」に、あきれる。いきなり3回90度曲がったかと思うと、船着き場跡あたりでは鋭角V字ターンする。「Z字」形なのである。

 流れようとする川と、流すまいとする山が、何十万年もの間、壮絶にせめぎ合ってきた結果か。まるで神々の戦い。そう思い、記者は芭蕉らの後を追い、ほぼ真っすぐになった最上川の沿岸を西へ進んだ。

 「参拝」周到に準備

 芭蕉たちが船でたどった現戸沢村あたりは、川に谷が深く削られ、両側の山がついたてのように続く。しかし、下船した清川(庄内町)から、狩川(同)にかけて景色が開けてきた。

 清川は、かつて庄内藩領の入り口で、庄内平野の東のへり。西の方には平野と空が広がる。旅が新しいステージに突入した気分だ。このまま鶴岡、酒田へ真っすぐ行きたい誘惑に駆られるが、目指すは南。その方角を見ると山地が黒々と見えた。

 1689(元禄2)年6月3日(陽暦7月19日)。芭蕉と曽良は、本合海から清川まで船で約20キロ移動した後、狩川経由で羽黒山麓の手向(とうげ)村(鶴岡市羽黒町手向)に向かった。目的は出羽三山への参拝である。

 出羽三山は、羽黒山(414メートル)、月山(1984メートル)、湯殿山(1500メートル)の総称で、古くから現在まで修験道の道場だ。曽良の「日記」によると、二人は10日(陽暦7月26日)まで、この霊地にとどまり、うち、羽黒山の南谷で7泊、月山の山小屋で1泊した。

 この参拝も、周到に準備されていたようだ。芭蕉たちは、まず羽黒山・出羽神社の門前町、手向で俳人である図司(ずし)左吉(染め物屋の主人・近藤左吉、俳号・呂丸(ろまる))を訪れ、彼を通して羽黒山の別当代(現地責任者)会覚(えかく)に面会を求めた(対面は4日)。この時、先方に提出した紹介状は、大石田で高野平右衛門(一栄)が書いたものだ。

 準備のかいもあっただろう、芭蕉たちは羽黒山の中腹、南谷にある別当の別院(紫苑寺)を宿舎に借り、ていねいにもてなされた―と「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)にある。

 そして滞在2日目、早速、俳諧興行。この日、芭蕉が詠んだのが〈有難(ありがた)や雪をかほらす風の音〉ありがたい山の姿だ。ここ南谷には残雪を薫らせて心地よい風が吹いている、の意(「ほそ道」の句の原形。佐藤勝明訳を参考)だった。

 息も絶え絶えに

 ここまでは、ごく普通の俳諧の風景。しかしこの後、かなり印象的な場面が展開する。三山を巡礼する登山である。

 巡礼開始は5日。初日は、羽黒山で出羽神社に参拝した。月山へ向かったのは「ほそ道」では8日だが、「日記」では翌6日。好天の下、芭蕉たちは修験袈裟(げさ)を着て白木綿で頭を包む行者の姿で、南谷から8里(約32キロ)月山山頂に至る。この日は、山頂付近の小屋で1泊した。翌日は、月山から約4キロの湯殿山に詣でた後、来た道を南谷へ戻ったというから、1日で約40キロ移動している。

 月山ビジターセンターの加藤一之解説員(60)は「月山の山頂付近はなだらかだが、湯殿山への途中が急で、金はしごが3カ所もある。ここをわらじで往復し帰って来たのはすごい体力」だと言う。

 すごいのは、筆の方も同じである。天空の中に入るような心地で、夏も残る氷雪を踏みしめて歩く。息も絶え絶えに月山山頂にたどり着くと、ちょうど日が沈み月が現れる―と、標高約2000メートルの世界を俳文でダイナミックに描写し、句では〈雲の峰幾(いく)つ崩(くずれ)て月の山〉入道雲がいくつも湧いては崩れた後、月山は月に照らされている、の意―と鋭く切りとる。

 見たことを語ってはいけない、と言われている湯殿山は〈語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな〉湯殿山の尊さに、涙で袂をぬらすことだ、の意―と詠んだ。

 私見だが、この出羽三山の場面、明らかに「ほそ道」の中では異質である。行き交う太陽と月、湧き立つ雲をダイナミックに捉え、真夏の氷雪まで盛り込む。宇宙的で神秘的だ。「神がかり」なのだろうか。

 三山の山塊は、尾花沢―山寺間では、巨大な島のように見える。芭蕉は、すでに山寺行きの時点で、出羽三山に魅入られていた気もする。

 さて、記者も羽黒山までやって来た。雪で行けなくなる前にと、11月初旬のことだ。それも月山の8合目まで、県道を車で登ろうという魂胆だ。しかしである。県道の入り口が封鎖されていた。ビジターセンターの加藤さんによると、雪に備え数日前に全面封鎖されたとのこと。

 準備不足の上に、楽をしようという心根に天罰が落ちたのか―と言うと「芭蕉も6合目までは馬で行きました」と加藤さん。まことに「憐愍(れんみん)の情こまやか」である。

出羽三山