おふくろ...帰るからな 南相馬・小高、遺志継ぎ「いつか自宅へ」

 
バリケードの前に立つ佐山さん。様子を見るために時折、自宅を訪れる

 佐山梅雄さん 66 南相馬市

 自然に囲まれた穏やかな暮らしは東京電力福島第1原発事故により奪われた。「おふくろがこんなに早く死ぬとは思わなかった。畑や草むしりもできず、楽しみもなくなったんじゃないの。かわいそうだな」。南相馬市で唯一、自宅が帰還困難区域に指定された同市小高区の佐山梅雄さん(66)は、古里に帰れぬまま亡くなった母ヒサさんの無念を語った。

 佐山さん親子は事故前、同市小高区金谷の沢沿いの林道を進んだ山あいの自宅で暮らしていた。林道はかつて浜通りと中通りを結んだ道で、塩や海産物、絹織物が行き交った。先祖は通行人に食事や宿泊場所を提供していたという。佐山さんは6代目で、周囲に古くは住宅が5軒ほどあったが、今では佐山さん宅だけになった。

 「静かでいい所だよ。毎日のんびりして楽しかった」。そこには親子のささやかな暮らしがあった。雨が降れば外仕事を休み、暑くなれば昼寝をし、暗くなれば寝る。草刈りに汗を流し、野菜やコメ作りを楽しみ、春には山菜、秋にはキノコ採集に出かけた。近くの八丈石山の山頂から太平洋や阿武隈山地の山々を見渡しながら食べる昼ご飯は格別だった。

 しかし、事故で状況は一変した。「まさかこっちに放射能がくるとは」。自宅は帰還困難区域に指定され、古里を離れての避難生活を強いられた。心身ともに丈夫だったヒサさんは次第に気力を失った。ほとんど外出せず、近所の人との交流もなくなった。認知症の症状が進み、引きこもりの状態になっていった。

 それでも、佐山さんがヒサさんを自宅に一時的に連れて帰ると、元気を取り戻した。「うれしかったんだろうな。家に着いたとたんに元気になって草むしりしてたよ」と思い返す。「もう(避難先に)戻りたくない。ここにいる」。そう話すヒサさんを佐山さんが説得すると、ヒサさんは渋々と車に乗り、避難先に戻った。ヒサさんは帰還かなわず、2020年に83歳で亡くなった。「山にいる時はぴんぴん動いて、どこも悪くなかった。100歳まで生きると思った」

 佐山さんは現在、10年ほど前に購入した同市原町区の中古住宅で愛猫「ミーコ」と生活する。「ふたりになっちまったな」と、ヒサさんと避難先でもずっと一緒にいたミーコに話しかける。「ここにいても寝起きだけで何もやることがない」。いずれは自宅に帰るつもりだ。市は佐山さんの帰還の意向を受け、金谷地区に避難指示解除に向けた特定帰還居住区域を設定する方針を示しており、25年度の除染開始を目指す。

 「早く家を直さないと。あとは、ちょこちょこ野良仕事をして過ごす。魚の養殖やキャンプ場もやりたい」。佐山さんは将来を思い描き、自宅のあるバリケードの先を見詰めた。(佐藤健太)

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 【13年の歩み】佐山さんは事故前、原発の定期点検作業に従事し、全国の原発を回った。事故当時は福島第1原発で働いていた。事故後は放射線や除染のノウハウを生かそうと、富岡町などで建物の除染や解体関連の仕事に就いた。最近は農業関連施設でコメや大豆の仕分け、清掃作業などを行っている。避難先では地区の交通安全指導隊員を務め、小学校やイベントでの交通誘導などに取り組んでいる。