【エールのB面】古関の従軍体験 『戦場の現実』...兵士心情思い作曲

 

 戦争編の佳境を迎えている朝ドラ「エール」。12~16日の第18週「戦場の歌」では裕一(窪田正孝さん)の戦地での慰問活動が描かれる。モデルとなった作曲家古関裕而も実際、何度か慰問などの活動で従軍している。戦後の活躍にもつながっていく古関の戦争体験はどうだったのだろうか。

 安全保障なし

 古関は1938(昭和13)年、軍から「従軍と実戦を体験してほしい」と要請を受け、詩人の西條八十らと中国に派遣された。文壇や画壇の著名人の従軍は多かったが、音楽関係者は古関らが第1陣。実戦の体験とは最前線に立つことで安全の保障はない。古関はこのときの心境を自伝で「当時の日本男子として、どうしてそれを断ることができようか。(中略)むしろ自分の職を通じて国運の勝利や栄えを祈る態度が正しいと思っていた」と振り返っている。

 古関は東京駅で先発の音楽関係者を見送った翌日、飛行場から福岡に出発。その後は空路で上海に入った。道中の移動で大型貨物船と小型船「大衆丸」があり、相談して「大衆の歌曲を作っているから大衆丸にしよう」と小型船を選ぶ。乗船し一夜明けると、選ばなかった貨物船が船腹に大きな穴をあけ傾いていた。移動中も中国軍から砲撃され、船の煙突に命中したこともあったという。

 陸軍病院へ慰問に行った際には、ちょうど軍楽隊の演奏会が開かれており、「露営の歌」の大合唱を聞いた。すると伴奏が途中で止まり、軍楽隊の隊長から作曲者として紹介された古関は頭を下げたまま泣いたという。古関は「兵隊の顔を見たとき、一人一人の肉親が無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた」と振り返った。古関の涙声を聞いた兵士に共感が広がり、感涙の合唱となった。

 また、小さな町に滞在中、夜中に非常招集で跳び起きると「夜襲に各自応戦せよ」と言われたこともあった。古関は「天命かと諦めたが、妻や娘の顔、父母の姿が浮かんでは消え、やがて涙でかすんでくるのだった」と振り返っている。

 音楽の徳実感

 太平洋戦争の開戦後の42年、古関は南方の占領地域への慰問団員に選ばれ、ビルマ(現・ミャンマー)などの東南アジアに派遣されている。任務は楽団の指導、東南アジアの民謡の研究・採譜、現地での作曲など多岐に及んだ。最前線への慰問の途中、同行者の車が崖下に転落する事故にも遭遇した。

 翌年2月の帰国の船にオランダ将校の捕虜が乗っていた。楽団が外国民謡やオペラを歌ったところ、歌のうまい捕虜が歌い出し、両方から拍手が起こった。古関は「芸術には国境がない。打ちひしがれた彼らをも慰め得たことは音楽の徳であると思った」と回顧した。

 古関は、44年3月に始まり日本軍が壊滅的な打撃を受けたインパール作戦にも特別報道班として派遣されている。このとき福島市にいる母ひさが病床に伏しており、従軍をしぶったが辞退は認められなかった。ひさは古関が従軍中に他界、古関は最期をみとることはできなかった。古関は現地で「ビルマ派遣軍の歌」や部隊歌を作曲したり、軍楽隊とともに各部隊を慰問したりした。作戦が失敗に終わり帰国命令が出たが、古関だけはサイゴン(現在のホーチミン)に行くことになり、現地で「仏印派遣軍の行進曲」を作曲した。

 従軍を経験して戦場の現実を知った古関は兵士の心情や戦場の光景を思い浮かべ作曲した。だからこそ大衆の心に響いた。古関は戦争で活躍する機会を得た一方、自分の歌で戦場に送られた多くの若者が死んでいった事実を終生背負っていく。

 リハせず撮影

 12日からの「エール」は、裕一が音楽慰問として、インパール作戦が展開されていたビルマを訪れ、戦地の過酷さを目の当たりにする。クライマックスはリハーサルをせず撮影したといい、演出の吉田照幸さんは「裕一が信じていたもの全てが崩壊していく。全ての自我の喪失なんです。裕一が追い詰められていくのを映し出すことができたんじゃないか。彼を描く上で戦争は避けられないと思って撮りました」と語る。

 【もっと知りたい】国境超え歌い継がれる

 戦争の影が色濃くなる中、退廃的な歌が流れるようになったため大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)が健全な音楽を普及させようと、1936年6月からラジオ番組「国民歌謡」の放送を始めた。その中で、古関裕而は37年、銃後の女性たちに活力を与えようと「愛国の花」を作曲した。

 作詞は詩人福田正夫。歌詞では女性の思いをサクラなどの花々にたとえている。38年4月に歌手渡辺はま子の歌でレコード化された。古関は暗い戦時生活に少しでも明るくと思って作曲したといい、「明るく美しく唱和できるように」と長調で作曲している(自伝)。

 放送後の反響は少なかったが、太平洋戦争以降に女性が工場などで働くようになって広く歌われるようになった。戦線拡大に伴い、東南アジアの人々にも愛唱されるようになった。

 植民地だったインドネシアを独立に導いたスカルノ大統領がこの曲を好み、日本語で歌うだけでなく、インドネシア語の歌詞も作ったという。62年に皇太子ご夫妻(現在の上皇・上皇后ご夫妻)がインドネシアを訪問した際の歓迎行事でも歌われたという。

 戦後20年以上たってから、インドネシアの離島で「愛国の歌」が歌われている様子をテレビで見て驚いたという古関。自伝で「歌が国境を超え、人種を超えて一つの心に同和する不思議な力をまざまざと感じ、自分の仕事の意義をあらためて感じた」と振り返った。