【久米正雄(上)】郡山・小説「彼女と私」 はるかなユリとの青春

 
久米正雄とその家族が暮らした開成館の一室。開成館1階北東の角にあり、久米は学生時代、窓から出入りしていたといわれる

 二人について気になり出したのは最近のことだ。二人とは久米正雄と宮本百合子。ともに郡山市にゆかりのある作家である。明治時代に生まれ、大正時代に小説を書き始めた同時代の二人だ。ただ、久米は「通俗小説」、百合子は「プロレタリア文学」の作家といわれる。つまり畑違い。地元でも二人の関係について耳にしたことはない。

 残された恋文

 それがある時、ネットにアップしてある「久米正雄・詳細年譜」で、こんな記述を見つけた。

 〈1916年(大正5)26歳/1月16日、ユリから手紙(森川町一宮裏河野方)「ずーっとあなたを愛していました」〉

 女性の名らしい「ユリ」は年譜をよく見ると、久米が20代半ばの1914~16年、頻繁に登場する。久米とユリが、文通したり会っていたことが分かる。

 そして、ユリの名字が中条(年譜での表記)のようだと分かった。中条は宮本百合子の旧姓、ユリは本名である。

 久米と百合子(ユリ)は恋愛関係にあった―。意外さに戸惑いながらも、セピア色の近代史の一部が鮮やかに浮かび上がるのを感じた。だが事実なのか。

 二人の関係が知りたいと、久米正雄記念館を併設する郡山市こおりやま文学の森資料館を訪ねた。すると小林和文館長(61)と大和田結花さん(25)が「こういう小説がある」と久米の短編「彼女と私」(「新小説」1918年11月号)の写しを示し、彼らの生い立ちを解説してくれた。

 1891(明治24)年生まれの久米は7歳の年、母の実家があった郡山に家族と移り、第一高等学校(一高)進学で上京する19歳まで同地で育った。ユリは99年、東京生まれ。良家の子女で、お茶の水高等女学校に入学した頃から文学に熱中した。

 育ちは異なるが、久米の母方の祖父立岩一郎と、ユリの父方の祖父中條政恒は、ともに元米沢藩士で、現郡山市の基盤を築いた安積開拓事業を推進した官吏だった。そして、両家には家族ぐるみの付き合いがあった。

 一方「彼女と私」は、男性である「私K」の視点で「彼女Y子」との出会いと別れがつづられる小説だ。背景である両家同士の縁や、開墾地である「私」の故郷の記述は立岩、中條両家の歴史と重なり、事実を写した「私小説」だと分かる。

 最初の出会いは「私」の郷里K村で、久米が育った桑野村(現郡山市桑野・開成地区周辺)が当てはまる。12、13歳の私は、見慣れぬ都会風の家族と道を歩いてくる4、5歳のY子のはつらつとした姿に目を奪われる。このN一家は、自分の家に立ち寄ったと書き、N家は彼女の祖母が住むK村を度々訪れていただろうとも後に記される。

 久米の家族は、正確な時期は分からないが、開拓村の区会所だった洋館、開成館の一室に住んでおり、二人が最初に出会った場所は、現在、資料館となった開成館がある郡山市開成3丁目付近かもしれない。

 続いてI温泉(飯坂温泉)、K村の沼(開成山公園)での数年おきの出会いと、彼女への印象がつづられるが、物語は東京で急転する。詳細年譜に「ユリ」の名が頻繁に現れる1914~16年ごろの出来事が語られるのだ。

 「私」は年始挨拶(あいさつ)に行ったN家で、Y子と文学論で盛り上がり急接近する。しかし翌年、彼女の母が、数え年17歳の娘が誘惑されていると言い、「私」と言い合いになる。

 誘惑する気はないと言った「私」だが、Y子に恋していることに気付き、そう手紙に書き彼女に手渡す。Y子からの返信には「私は貴方(あなた)のお気附きになる前から、貴方を愛してゐる事を、はつきり申し上げます」とあり「私」は満足する。そして、それきり彼女とは会っていない―などと結ばれる。

 なんだか「私」がかっこよく描かれている。「創作では」と記者が言うと、小林館長らは「裏付ける手紙が1986年に見つかっている」と言う。大森寿恵子著「若き日の宮本百合子」増補版に手紙の詳細が記されていた。

 別々の道選ぶ

 ただ、小説には書かれていない続きがあった。ユリは久米に「告白の手紙」を出した後(消印では9日後)再び手紙を出し「私は貴方の恋人には成つて居られません」と記している。「別れの手紙」である。そして彼女は、その2日後、郡山の開拓民の状況を基に小説「貧しき人々の群」を書き始めたという。この作品は雑誌「中央公論」に掲載され、17歳のユリは一躍脚光を浴びた。彼女は恋の迷いを断って社会派作家の道を進み、久米も自身の文学を求め別の道を進んだということだ。

 二人が3度目に出会ったらしい開成山公園には現在、ユリの記念碑と久米の句碑が立つ。その距離は100メートルほど。近いのか遠いのか。それぞれの案内板には、二人の青春の記憶は記されてはいない。

 久米の詳細年譜は、作家で比較文学者の小谷野敦氏が作成し公開。小谷野氏は「微苦笑の人 久米正雄伝」の著者で、同書でも二人の交際について詳細に記している。

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 【開成館へのアクセス】郡山駅からバスで約15分、郡山インターチェンジから車で約20分。

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 【久米正雄】1891(明治24)年、長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。98年、父由太郎が校長を務める小学校で火災が起き、父が自殺。上田から母幸子の故郷、安積郡桑野村開成山に移る。開成小、金透小、安積中を経て一高、東京帝大英文科卒。安積中時代から俳句に傾倒し、大学時代は雑誌、第4次新思潮を一高の同級生、芥川龍之介、菊池寛、松岡譲、成瀬正一らと創刊した。1952年没。

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 【宮本百合子】1899(明治32)年、東京生まれ。1916年、開拓村を舞台とした小説「貧しき人々の群」を発表。31年、日本共産党入党。翌年、評論家で後の共産党委員長、宮本顕治と結婚。51年に没するまで社会運動や執筆活動に取り組んだ。代表作に「伸子」「播州平野」など。父中條精一郎は帝大卒の建築家で、現福島市で一時生活した。精一郎の父は「安積開拓の父」と呼ばれる中條政恒。

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 【開成館】安積開拓は、県と民間組織開成社による大槻原(開成山一帯)開拓として1872(明治5)年始動。後に国営事業が導入された。中條政恒、立岩一郎は県の官吏として事業を推進。現在、開拓当時の資料を展示する開成館(県重要文化財、郡山市開成)は74年、区会所として建てられた疑洋風建築物で、久米正雄の家族はその一室で暮らした。敷地内には立岩一郎邸など当時の住宅3棟が立つ。23日まで企画展「立岩家文書と辿る安積開拓の歴史」を開催中。(電話)024・923・2157