【 白河城下 】<関守の宿を水鶏にとはふもの>曽良は隠密?謎めく日記

 
東日本大震災で崩れた部分の修復が完了した小峰城の石垣。芭蕉と曽良が郭内に入ったのかは定かではない

 白河は江戸時代、白河藩の城下町として一気に発展した。全国屈指の規模を誇ったといわれる「白河の馬市」は、商人をはじめ多くの人でにぎわい、戦後まで約300年続いた。

 風流を愛する俳聖松尾芭蕉はそんな巷(ちまた)の俗っぽさを避けたのだろうか。白河城下はほとんど素通りした感がある。

 しかし、縁がなかったわけではない。会った人物が2人、会えなかった人物が1人いた。

 本名知らぬまま

 芭蕉が陸奥(みちのく)に入る折に詠んだ〈西か東か先(まず)早苗にも風の音〉の句は、〈早苗にも我色黒き日数哉(ひかずかな)〉を改作したものだった。改作については「日記」の俳諧書留に記されているが、白河に住む人物に宛てた芭蕉の手紙にも記されている。

 人物の名は「何云(かうん)」。はっきり分かるのは、この名と、作品がいくつかの俳諧撰集に収録された―ということだけ。謎の人物である。

 芭蕉は、次の宿泊地須賀川で地元の俳人相良等躬(とうきゅう)から何云のことを聞き、彼に次の手紙を出した。

〈白河の風雅聞もらしたり。いと残(のこり)多かりければ、須か川の旅店より申しつかはし侍(はべ)る。
  関守の宿を水鶏(くいな)にとはふもの
又、白河愚句「色黒き」といふ句、乍単(さたん)より申参候(もうしまいりそうろう)よし、かく申直し候。
  西か東か先早苗にも風の音
   何云雅丈   はせを〉

 〈白河の風雅聞きもらしたり〉は「白河であなたの俳諧を聞けなかった」の意。会えずに心残りだと書き〈関守の宿―〉の句では、何云を白河の関の関守になぞらえ「水鶏(水鳥の一種)にあなたの家を訪ね、戸をたたけばよかったのに(水鶏の声は古来、人家の戸をたたく音になぞらえられる)」と詠んだ(今栄蔵「芭蕉句集」)。

 また、現存する手紙(出光美術館所蔵)には「芭蕉翁は私と会いたかったが、私の俗名(本名)が分からず白河を過ぎてしまった」(意訳)などと書いた何云の添文(そえぶみ)が付されている。

 この何云の正体については、元白河市文化財保護審議会長の金子誠三さん(92)が「追跡」していた。手掛かりは何云の句と一緒に俳諧撰集に記されていた彼の所在地名。「宇都宮」「奥州白河」「(出)羽山形」「(備)後福山」。いずれも当時の白河藩主奥平(松平)忠弘とその孫忠雅が国替えしていった城下で、何云は奥平家の家中だったと推理される。

 上級武士と接触

 一方、芭蕉が白河城下で会った2人については「日記」に「中町左五左衛門ヲ尋ネ、大野半治ヘ案内シテ通ル」と名が書かれているが、謎は一層深い。

 中町は現在の白河駅前の一角。芭蕉と曽良は、同地の町人左五左衛門と会い、大野半治の元に案内してもらったということだが、金子さんによると、大野は450石取りで、物頭(足軽を支配する隊長など)を務める白河藩士。そんな上級の武士に、芭蕉たちは一体何の用があったのか? 理由はどこにも書かれていない。

 付け加えると、金子さんが大野の名を見つけたのは1692(元禄5)年に同藩のお家騒動で城下を去った脱藩者の記録の中。つまり彼は、芭蕉らが会った3年後、クーデターを起こした反藩主派の一人だった。何ともきな臭い人物である。

 金子さんは〈1〉曽良が晩年、幕府の諸国巡見使(監察官)の随員として行動している〈2〉旅の俳諧師が上級武士のいる郭内に出入りすることは制約される―ことから、どうも曽良が単独で大野を訪ねたのではと推理する。「その心」は...曽良=隠密? 情報員? 歴史の底に沈んだ真実を知るすべはないが、これも「おくのほそ道」を彩るロマンだろう。

白河城下

 【 道標 】丹羽長重の時代に改修

 白河は江戸時代、伊達など陸奥の外様大名をけん制する「奥州の押さえ」として有力な譜代大名(丹羽を除く)が置かれた。藩主の御国替えも頻繁で、丹羽―榊原―本多―奥平松平―越前松平―久松松平―阿部(―天領)と幕末まで7家が入れ替わっている。
 白河藩の拠点、小峰城の原形は14世紀、周辺の支配者、結城親朝が築城した。ただ白河結城家の本拠地は白川城(現白河市藤沢山)で、小峰城は分家・小峰家の居城だった。
 小峰城が現在の形に整備されたのは江戸時代初期、初代白河藩主丹羽長重の時代。長重は、伊達からの守りを意識し1629(寛永6)年から約7年かけ、石垣を多用した城郭や、本丸から東側へ続く丘陵部の石垣を築く大改修を行った。また、阿武隈川の流れを変えて元の河原(現会津町)に約100軒分の武家屋敷を建設している。
 戊辰戦争では本丸などが焼失したが1987(昭和62)年以降、三重櫓(やぐら)や前御門が復元された。また東日本大震災では石垣の石約7000個が崩落したが、伝統工法による約1万2000個の積み直しが行われ、2019年3月、改修が完了した。(編集局。内野豊大「小峰城」=歴史春秋社「白河」所収=を参考にした)