【須賀川・俳壇の系譜】<終にゆく道はいづくぞはなの雲>多代女辞世の句碑

 
多代女が眠る十念寺

 1689(元禄2)年4月29日(陽暦6月16日)、松尾芭蕉と河合曽良は須賀川を後にした。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅は三春街道を行き守山(現郡山市田村町)の田村神社へ向かった。

 相楽(さがら)等躬(とうきゅう)は、はなむけにも余念がなかった。道中には馬を遣わし、案内役には、ともに歌仙を巻いた、地元の俳人矢内素蘭(やないそらん)が付いた。俳聖を慕った須賀川俳壇。その系譜は今も続く。

 雨上がりの翠ケ丘公園・妙見山。俳句結社「桔槹吟社(きっこうぎんしゃ)」の同人たちが吟行句会に集った。テーマは、頂上の須賀神社そばにある「霊光の碑」とその周辺だ。

 自分の弱さ出す

 立ち上る夏草の匂いと襲いかかるやぶ蚊。句を練る同人たち。森川光郎代表(93)は「晴天より詩想が湧くね」と、幼少期から遊んだという草むらを歩き回る。句会では、集まった句から同人たちが選句し、最後に森川代表が選評を加える。「自分の弱さを俳句で出す。この覚悟で臨まないと上達しない」

 桔槹の創立は1922(大正11)年7月1日。設立同人は「桔槹三太郎」と呼ばれた柳沼破籠子(はろうし)(源太郎)と矢部榾郎(ほたろう)(保太郎)、道山草太郎ら9人。三太郎が師事した俳人原石鼎(はらせきてい)が同年5月、須賀川牡丹園を来遊したことがきっかけになった。石鼎は高浜虚子の弟子で俳誌「鹿火屋(かびや)」を主宰。こうして始まった俳誌「桔槹」は2009(平成21)年、創刊千号を迎えた。

 この句会で記者が森川代表に促され選んだ一句は〈芝青くリポビタンD横たはり〉。草むらに寂しく転がる空き缶を目にしただけに共感した。最後の作者発表。〈芝青く―〉は森川代表の作だった。一同笑い。力みの抜けた自由さにほれぼれだ。

 さて、芭蕉が須賀川を訪れなかったら、等躬との交流がなかったら―。「今はなかった」と森川代表。「でもね、俺は地元びいきだから、やっぱり等躬さんが偉いと思うんだ」

 等躬の系譜を継承、発展させたのが蕉門(しょうもん)(芭蕉門下)直系の藤井晋流(しんりゅう)とされる。その孫弟子石井雨考(うこう)も大家として知られるが、雨考最大の功績は、須賀川が全国に誇る女流俳人市原多代女(たよじょ)(1776~1865年)を輩出したことかもしれない。

 多代女が眠る須賀川市池上町の十念寺。門を入り右手には、芭蕉が詠んだ〈風流のはじめや奥の田植唄〉の句碑がある。多代女の建立だ。左手に向かい合わせで立つのは多代女辞世の句碑〈終に行く道はいつこそ花の雲〉(人生の終わりの道は、美しい桜の花の雲の中にあるのだろうか―の意。底本「辞世集」の表記と異なる)。

 多代女78歳、2人の子と花見に訪れたところ、西の山にうすづく太陽に「感慨の情」を起こして詠んだという。「西方浄土」を見たか。衰え知らずの俳想に宗教的厚みが加わった感がある。

 変わらぬ人の心

 墓標を訪ねると、花が手向けてある。合掌。「文学に救われる」。何とも小っ恥ずかしい言葉だが、多代女はそれを地で行った。夫の早世、子育て、家業。心をすり減らした。だが、雨考らの導きで俳諧の道に入り大成した。多くの子孫や弟子らに慕われ90歳の大往生を遂げた。

 逝去を受け、弟分の俳人山辺清民は、56年にわたる交流を「短い夢のよう」とし「ただ机に向かい黙って寂しさをかみ締めるのみ」とつづった。この詞書(ことばが)きに続け、追悼句〈月を待つこゝろもなくて秋の暮〉(一緒に月を眺め心を通わせた人は亡くなり、ただ寂しい秋の夕暮れがあるだけ―の意)をささげている。

 市内の市原家を訪ねる。徳子さん(83)が多代女の肖像画「岩代(いわしろ)のたよ女」(太田聴雨(おおたちょうう)作)を見せてくれた。もちろん想像に基づくが端正な面長、瓜実顔の女性と牡丹(ぼたん)が描かれている。視線の先には地に落ちた花びら。愁いを帯びた表情が、句から受ける印象と重なる。

 長い人生だ。見送った友も多かったのだろう。「花見、月見と、庵(いおり)に人を招きにぎわったものだが、皆亡くなり清民さんを相手に語らうだけになってしまった」と回顧するように、多代女は〈膝抱て二人無言や月の友〉(「晴霞句集」)と詠んだ。

 芭蕉記念館の高橋亜純さん(51)は「人はいつか一人になるもの。まだ一緒に月を見る人がいる。誰かと同じ時間を共有できるのはすてきなこと」と読む。簡潔な飾らない表現が、今も昔も変わらない人生の機微を教えてくれる。

 宮先町の交差点から翠ケ丘公園へと続く坂。旧市原家の庭園を通り「多代女坂」と呼ばれる。途中にある広場「多代の宙(そら)」は生家跡。その奥には樹齢約600年のケヤキの大樹がたたずむ。芭蕉の来訪はもちろん、須賀川を静かに見守ってきた。そして、これからも。

須賀川・俳壇の系譜

 【 道標 】出会いが人生変えた

 90年の生涯で4千以上の句を残した市原多代女(たよじょ)。松尾芭蕉の蕉風(しょうふう)を継承し江戸時代を代表する女流俳人として頭角を現した一方、家事や子育てにいそしむごく普通の女性、家庭人でもありました。その作風は、封建的な価値観に反抗するわけではなく、優しく素朴。謙虚につつましく生き、凛(りん)としたたたずまいで町を歩く姿が目に浮かびます。
 多代女は須賀川の酒造屋に生まれました。養女として分家に入り、19歳で夫を迎え家業の縮緬(ちりめん)問屋を営み、3人の子どもに恵まれました。しかし、多代女31歳で夫が逝去。家業がある中の子育ては容易ではなかった。心の病にかかってしまいます。そこで、多代女を俳諧の道へ導いたのが兄と地元の俳人石井雨考(うこう)(乙字ケ滝に芭蕉の〈五月雨の―〉の句碑を建てた人物。連載第18回参照)でした。年齢を考えれば晩学といえますが、やはり感性が秀でていたのでしょう。女性に自己表現の場がない当時にあって、男性に劣らず俳壇での地位を高めていきました。
 多代女は、同じく夫を亡くした加賀千代女ら同時代を代表する女流俳人とは異なり、出家はしていません。家庭人としての仕事があったからでしょう。念願の江戸行きが実現したのは48歳です。家の心配をしたり、不安を抱えながらも、現地の俳人らと交流を深め、名声を高めました。
 俳句が失意の多代女を救った。周囲の理解者、指導者の存在、そして俳句を通して育んだ交友関係。人に恵まれた人生だったと思います。俳句が芭蕉と相楽(さがら)等躬(とうきゅう)を結び付け、さらに多代女の人生も変えた。俳句との出会い。その喜びは大変なものだったでしょう。(須賀川市芭蕉記念館・高橋亜純さん)