【福島・文知摺観音】<苗とる手もとや昔しのぶ摺>落胆から生まれた名句

 
文知摺観音堂のそばにある文知摺石。現在、柵は取り除かれ、周囲の石組みが明治時代に地面から掘り出された史実を伝えている

 福島市の中心部から直線で約5キロ。同市山口地区は、福島盆地の東端。松尾芭蕉の足跡をたどり同地の観音堂を訪ねると、秋風が木々を揺らしていた。

 前回、県庁前の碑に刻まれた芭蕉の句〈早乙女に志かた望まむ信夫摺〉を見つけ「似たような句を知っている」などと、思わせぶりなことを書いた。しかし、ご存じの方は多いだろう。平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺(ずり)」もしくは「しのぶ文知摺(もぢずり)」を詠んだ句のゆかりの地が、山口地区の文知摺観音である。

 甘く切ない恋歌

 芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日(陽暦6月17日)、福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まる。出発の時刻は書かれていない。この、時間に縛られていないあたりに、芭蕉たちの、のんびりした心持ちが映し出されているように思える。

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)には、このくだり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。

 「しのぶもぢ摺の石」(一般的に「文知摺石」)は歌枕である。これを詠んだ(厳密には布・衣を詠んだ)最も有名な歌が、小倉百人一首にもある河原左大臣、源融(みなもとのとおる)の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉(「古今集」)だろう。

 「『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れ始めたのか、私のせいではないのに(あなたのせいです)」という、甘く切ない恋の歌である。「しのぶもぢ摺」が、千々に乱れた恋心、「しのぶ」が「密(ひそ)やかな恋」を思わせる強力な枕詞(まくらことば)だ。

 さらにこの地には、源融と地元の長者の娘虎女(とらじょ)との悲恋が伝わっている。そのため芭蕉の時代以前から、文人や参詣者が訪れる観光地として知られていた。では、芭蕉もついでに立ち寄ったのかというと、そうでもない。

 「この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだろう。悲恋も経験したのだし」と文知摺観音(正式には曹洞宗普門院)の横山俊邦住職(71)は言う。

 実際に見て衝撃

 芭蕉の悲恋には、研究者の考察がある。今回は触れないが、確かに、この恋歌が俳聖を呼び寄せた可能性は否定できない。

 そんな色っぽい話を振る一方で横山住職は「この歌枕と伝説の地を、芭蕉は自分の目で確かめに来たのに、がっかりして帰った」と現実をドライに語る。

 芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。「ほそ道」では、地元の子どもの言葉を借りて「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。

 そして芭蕉いわく「そんなことがあってよいものだろうか」(以上意訳)。芭蕉の激しい落胆が伝わってくる。

 それでも、芭蕉が気を取り直すように詠んだ句が

〈早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)〉。ここ信夫の地で忍ぶ摺が行われていたのは昔のこと、せめて早苗を取る早乙女の手元に往事の所作を偲(しの)ぶとしよう、の意(佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」)。ロマンの消失にがくぜんとしつつ、現在の田植えに視点を移し、昔をしのぶ感慨を詠んだのだ。この転換、さすがである。

 文知摺石や句碑などを見終わると、横山住職が「見せたい物がある」と言う。場所を移し住職が取り出したのが掛け軸だった。前書きと句が毛筆で記され、印がある。句は

〈早苗つかむ手もとや無かし志のふ摺〉。昭和初期、山形県方面から譲り受けたという芭蕉の真蹟(しんせき)(直筆)だった。

 穎原退蔵・尾形仂訳注「新版おくのほそ道」によると、しのぶ摺の句は、最初に県庁前の句碑や「俳諧書留」に記された〈早乙女に―〉が詠まれ、次いで掛け軸の〈早苗つかむ―〉、最後に〈早苗とる―〉と改められ「ほそ道」に掲載された。

 さらに〈さなへつかむ―〉の表記の句に、少し違う前書きを添えた真蹟が、各地に残されている。芭蕉は行脚しながら、句を求められると、しのぶ摺の句を書き与えていたのだった。

 それだけ芭蕉に愛された句だったのだろう、しのぶ摺の句は。

福島・文知摺観音

 【 道標 】住民千人がかりで発掘

 福島城下で宿を出た後の芭蕉と曽良の足取りは、曽良の「日記」にこうある。「町ハヅレ十町程過テ、イガラベ村ハヅレニ川有。川ヲ不越(こえず)。右ノ方へ七八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云(いう)。ソレヨリ十七八丁山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有」(穎原退蔵・尾形仂訳注「新版おくのほそ道」)
 北南町(現北町)に泊まったとすると、二人は現テルサ通りを東に進み城外に出ると、国道4号の東を北上。松川に突き当たった所で東へ折れ、阿武隈川まで進んだ。そして国道115号・文知摺(もちずり)橋辺りといわれる「岡部の渡し」から、舟で阿武隈川を渡り東へ。文知摺石、文知摺観音にたどり着いた―となる。
 文知摺石は縦横約5メートル、高さ約2・5メートルの火成岩。地中に埋まっていたが、1885(明治18)年、信夫郡長柴山景綱(県令三島通庸の義兄)が周辺住民千人余りを集め発掘した。このため今は、三方が石垣になったくぼ地の底にある。「日記」に記された柵は、10年ほど前に取り払われた。文知摺観音(普門院)の横山俊邦住職は「正岡子規が訪れた時『あの柵は何だ』と不評だったらしい。代わりにモミジを植えた」と話す。
 最後に、同地の悲恋伝説を記す。9世紀、陸奥国に下った源融は、山口で娘虎女と恋に落ちる。その後、融は再会を約束し帰京するが便りもなく、虎女は文知摺観音に再会の願をかける。すると満願の日、文知摺石に融の面影が一瞬浮かんだ。その後、虎女は病に倒れ、死の間際〈陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに〉の歌が届いた―。(編集局)