【福島・飯坂】<笈も太刀も五月にかざれ紙幟> 家族の愛...はじけた感情

 
医王寺本堂にある佐藤一族位牌殿と橋本住職。中央に一族の位牌、右に継信の妻若桜、左に忠信の妻楓の人形が置かれている。人形は昭和40年代、地元婦人会から寄贈されたという

 元禄2(1689)年5月2日(陽暦6月17日)。信夫郡山口村(現福島市山口)の文知摺(もちずり)観音を後にした松尾芭蕉と河合曽良は、西へ向かった。目指すは、文知摺観音から十数キロ離れた「飯塚の里鯖野(さばの)」。温泉地として知られる現在の同市飯坂町である。芭蕉が飯坂を飯塚と記したのは、あえてなのか、聞き違いかは不明だ。

 不自然な足取り

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)によると「飯塚」に着いた二人は、道を尋ねながら信夫郡を治めた庄司の館跡と大手(館正面の門)跡、最後に古寺を訪れ、夜は同地に泊まった。

 このくだり、地元の人は疑問を感じるようだ。飯坂町史跡保存会の小柴俊男会長(79)は「芭蕉が記した足取りは、館跡のある町の北へ行った後、医王寺のある南に戻り―と不自然。飯塚の場面はかなり創作がある」と話す(「道標」参照)。

 足取りの真偽は別にしても「ほそ道」での飯坂は、確かにドラマチックに描かれている。

 館跡の主人は、平安末期に信夫郡を治めた佐藤基治。奥州藤原氏の家臣で、飯坂の大鳥城(丸山、現舘ノ山公園)を居城とした武将だ。その息子が、源義経の家来として「義経記」や謡曲などで活躍する佐藤継信、忠信の兄弟。一族は、平家が滅び鎌倉幕府が成立する戦乱の中で、義経や奥州藤原氏とともに戦い、滅びた。「古寺」は、その菩提寺(ぼだいじ)「医王寺」である。

 芭蕉は、旧跡を巡り一族の悲劇に思いをはせ、涙を流した。特に医王寺では「兄弟それぞれの嫁(若桜と楓(かえで))の墓標が真っ先に胸を打つ。女の身で、よくもけなげな名声が世に知れわたったものだと、感涙に袂(たもと)をぬらした」(意訳)と、「ほそ道」につづられている。

 「けなげな名声」は、嫁たちと兄弟の母乙和の伝説を指す。兄弟が戦死した後、若桜と楓は甲冑(かっちゅう)を着て夫らの凱旋(がいせん)のさまを演じ、老母を慰めたといわれる。佐藤兄弟の物語の、感動的なラストシーンともいえよう。
 ...と書き「なるほど」と思った。芭蕉は、この名場面のイメージを借りて見せ場を描くため、旧跡巡りの最後に医王寺を持ってきたのだ。ならば小柴会長が指摘する不自然な芭蕉の足取りも、演出のための「書き換え」だと納得がいく。

 演出はさらに、さえわたる。情感の高まりに乗って芭蕉は、寺の宝である義経の太刀、弁慶の笈(おい)に触れた上で、一句畳みかける。

〈笈も太刀も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)〉。節句も近い五月、紙幟とともに寺宝の笈や太刀も飾っておくれ、の意(佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」)。

 命令形「かざれ」の勢いに、しびれる。芭蕉の感情がはじけたようだ。続けて「5月1日のことである」と結ぶ余韻が良い。

 ただ、ここにも虚構がある。医王寺に嫁たちの墓はなく、曽良の「日記」では芭蕉は寺の中に入っていない。また、この日は5月1日でなく2日である。

 思い伝える演出

 作りすぎでは? そんな記者の内心を見透かすように、医王寺の当代住職橋本弘史さん(54)が、こう教えてくれた。

 「ほそ道の旅で、芭蕉が涙を流したと書いた場面は飯坂、平泉など、そう多くはない。また芭蕉は、戦地へ向かう息子らを基治が見送った『庄司戻しの桜』(白河市)にも立ち寄っている。互いに思い合う家族の気持ちが、芭蕉にも素直に伝わったのでしょう」

 感動を伝えたい芭蕉には、記録のような記述は、しっくりこなかったのか...。飯坂の名所、鯖湖湯につかり考えてみるが、お湯が熱く集中できない。隣では横浜市から来た青年(27)が、熱さに悲鳴を上げている。湯に入った芭蕉も悲鳴を上げたのだろうか。確かに、このコミカルさ、医王寺の感動とはミスマッチだ。

【福島・飯坂】<笈も太刀も五月にかざれ紙幟>

 【 道標 】虚構盛り込み情感演出

 飯坂町は、小川という川が西から東へ流れ、大鳥城跡のある北側と、医王寺のある南側を隔てています。「おくのほそ道」の文章の通りに飯坂周辺を歩くと、この小川を3回渡ることになります。
 芭蕉は、瀬上宿から(県道飯坂瀬ノ上線の原道を通り)飯坂に向かいました。途中、小川の南側で福島街道に入ると北へ進み、小川を渡って大鳥城の大門跡へ行きました。次に向かった所は、南側にある医王寺です。医王寺へは御荷越の坂を下り、小川を渡らなければ行くことはできません。
 さらにこの夜、芭蕉は温泉に入り宿に泊まっているので、医王寺から、また小川を渡り温泉街のある北側へ来たことになります。すると芭蕉は、小川を3回渡ったことになります。いくら道に不案内でも、このように南と北を行ったり来たりするのは然です。
 また、芭蕉はこの夜「貧家」に泊まり虫や雷雨に悩まされ、持病に苦しんだと記していますが、地元には「滝の湯」という宿に泊まったという伝承があります。
 芭蕉は、宿の状況をひどく描くことで、自分が苦労しているように見せ、旅の悲壮感を演出するなど、多くのフィクションを盛り込んだのではないでしょうか。多少の虚構は必要でしょうが、ここは首をかしげるところです。(飯坂町史跡保存会会長・小柴俊男さん)