【 山寺 】<閑さや岩にしみ入蝉の声> 石段1000段の先は『異世界』

 
突き出した岩壁の上に立つ納経堂。降りしきる雪が異界に迷い込んだような浮遊感をかき立てる=宝珠山立石寺

 「山形県の人は、相手との距離を縮めるのがうまい」と、山形で営業経験がある福島市の知人に言われた。なるほど。親切という以上に、何か尋ねると熱心に答えてくれたりする。

 同県尾花沢市の芭蕉、清風歴史資料館の職員の方は、同地の雪深い風土の解説が印象的だった。松尾芭蕉が尾花沢で7泊した養泉寺の現在の別当(管理者)三井きみ子さんは、北西を指さし「あれが月山、その左の方が鳥海山」と教えてくれた。
 この尾花沢の気質も、松尾芭蕉と河合曽良を11日間も引き留めた要因だったろう。そんな二人にも、旅立ちの日が来る。目的地は羽黒山、鶴岡、酒田、つまり北西の方角。しかし、歩き出したのは、真逆の南だった。

 にぎわう観光地

 1689(元禄2)年5月27日(陽暦7月13日)。芭蕉たちが向かったのは天台宗の寺、宝珠山立石寺(りっしゃくじ)。「山寺」である。

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)には、山寺を「格段に清く静かな地」と紹介し、尾花沢の人々が「一目見るべきだ」と勧めるので、とって返した(意訳)とある。江戸からここまで北上したのに、再び7里(約28キロ)ばかり真南へ戻ったのだ(地図参照)。まわり道と言うか、完全な寄り道である。

 山形市・山寺芭蕉記念館の相原一士(かずし)学芸員(56)は、山寺行きを最初に勧めたのは養泉寺の住職と推察する。養泉寺と山寺が同じ天台宗というのが、住職推薦の大きな根拠だ。芭蕉の山寺行き決断には、7泊も世話をした住職の親切以上に熱心な人柄も、大きく作用したのだろう。

 さて、曽良の「日記」によると朝6時すぎ、尾花沢をたった芭蕉たちは好天の下、鈴木清風が用意した馬で舘岡(山形県村山市楯岡、以下地名は山形県)に到着。さらに、徒歩で六田(東根市)、天童(天童市)を経て山寺(山形市山寺)に至った。到着したのは午後3時ごろ。芭蕉は、日も暮れていないので、麓の宿坊に宿を取り、山上の僧堂に上ったと記した。

 「立った石の寺」とはよく言ったもので、山寺=立石寺は、切り立った岩壁に多くのお堂が立つ。麓と、山の上の奥の院との標高差は約160メートル。これを参拝者は約1000段の石段で上る。

 記者が初めて山寺を訪れたのは昨年11月だった。清閑とした山寺という想像とは真逆、連休のためテーマパークのようなにぎわいだ。石段は観光客で渋滞気味。そして記者は、石段の半ばでグロッギー...。30キロ旅して、さらに余裕で山を巡った芭蕉のタフさに感服するしかない。

 それでも、にぎわいとは対照的な、清閑とした凄(すご)みがある。うっそうとした森の中、足元の岩々はコケに覆われ、岩壁には無数の板碑...。それも歳月で風化していたりする。芭蕉が記した、物音一つ聞こえず、心の澄み切っていくような静まりかえった風景が、喧騒(けんそう)の中でも想像に難くない。

 芭蕉がこの地で詠んだ〈閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声〉は、説明も不要な名句中の名句だ。降りしきるセミの声で静寂を表現する非凡さ。喧騒の中でも、山寺の懐の深さを味わえとの教えか、とも感じた。

 不思議な浮遊感

 しかし、これも山寺の一面にすぎない。1月に入り山寺を再訪した。朝8時、読経が響く荘厳さの中、人けのない石段を上ると異世界が待っていた。暖冬で積雪皆無にもかかわらず、この時だけ雪が勢いよく降る。石段の中ほどで森を抜けると、岩壁をつたう道に出た。視界が一気に開け、足元には雪にかすむ谷間が口を開けている。異国の山岳地帯を行くようだ。切り立った岩の上にぽつんと立つ納経堂が、降りしきる雪でかすんでいく。風化し大小の穴が空いた凝灰岩の岩壁の質感がよく分かる。なるほど、まさにセミの声がしみ入る岩のイメージだ。

 セミの声はもちろん、まったく無音の空間で、不思議な浮遊感が増す。芭蕉が感じた静寂に近づいた気がした。

山寺

 【 道標 】特異な景観が詩心触発

 宝珠山立石寺(りっしゃくじ)は貞観2(860)年、慈覚大師が開山したと伝えられる天台宗の寺院で、「山寺」はその通称です。
 切り立った山を中心に広がる境内のうち、麓に立つ根本中堂が総本堂です。延文元(1356)年、山形城主斯波兼頼によって再建され、慶長13(1608)年に第11代山形城主最上義光により大改修されました。奥の院まで約千段の石段が続き、その間に性相院、金乗院などの寺や、開山堂、納経堂、五大堂などの堂宇があります。江戸時代にはさらに多くの寺社がありました。
 境内には、長年の風雨で浸食された凝灰岩の岩壁、奇岩が至る所に露出し、特異な景観を見せています。尾花沢で鈴木清風たちが芭蕉に山寺行きを勧めたのも、この景観が必ずや芭蕉の琴線に触れ、詩心が触発されると考えたのだと思われます。また、尾花沢で芭蕉が主に宿泊した養泉寺が、立石寺と同じ天台宗だったことも、要因だったと想像されます。
 芭蕉が詠んだ句「閑(しずか)さや―」について、地元の人々は、山形の自然の豊かさ、奥深さが生み出した句として意識していると思います。また、山寺で随所に見られる凝灰岩の独特な質感から連想し「岩にしみ入る」という表現に到達したのだとすれば、まさに芭蕉と山寺の出合いによって生まれた名句だと言えます。(山寺芭蕉記念館学芸員・相原一士さん)